愛の形

 

まえがき

愛とは何か、恋とは何か、恋愛とは何か。

そうした定義を論じるつもりはなく、

単に自分はこんなことを思っている、というだけの内容です。

 

アベックの姿

男女二人のカップルを見かけます。電車の車内や駅、街頭、公園など、

色々な場所で見かけます。それは今も昔も同じですが、

最近の特徴は二人の距離が近いこと。

べったり、正にべったりとくっついています。手をつなぐ、顔を寄せ合う、肩を抱く・・・。

あれは何を意味しているんだろうか、と考えてしまいます。

 

お互いの身体に触れていないと安心できない、そんな不安の現れでしょうか。

相手を拘束していないと心配で、相手の心変わりを見張っている。

それは同時に自分も相手に拘束され、見張られていることになる。

確かめないと安心できない。信頼よりも確認が先に立つ。

人の気持ちは変わるもの。相手の気持ちも自分の気持ちも、時とともに変わる。

それが分かっているから確認をせずにはいられない。

 

また、自分たちのべったりの姿を人に見てもらわないと、これも安心できないのか?

人に見られることで、二人の行為がより信頼できる。

つまり人に見られることは試練であり、それを乗り越えて実行できるのが

真の愛情である。その表現がべったり行為である、ということなのか。

いやこれは違う。見られていることすら意識していないのではないか。

 

或いはまた、個人の領域と、個人の外にある社会の領域との境目がなくなってきたのか。

個人の領域での出来事は社会からは干渉されたくはない。個人の自由である。

この個人の自由は、社会の目からは隠されていた筈。

公序良俗に反しない限り、見えない所での出来事について、

社会の側は口を出しようがない。

この個人と社会の境目の位置が移動し、

公序良俗の基準が、若者の側だけが変化してアメリカ風になったということか。

 

好きな理由

相手の何が好きか、相手を好きな理由は?と聞かれたらどう答えるのだろう。

優しいから、可愛いから、綺麗だから、格好いいから・・・。

好きな理由は全て主観的なもので、受け取り方が変われば表現は変わります。

相手に優しさを求め続ければ、より多くの優しさを期待し、

より多くの可愛さ、綺麗さを期待する。その期待がかなえられないと失望する。

それでも求め続けなければ自分が安心できない。私の好きになった人は

こんな人ではなかった、もっと優しかった筈、可愛かった筈。

その結果、相手には疎まれる。自分も安心できない。不満が残る。

さてどうするか。

相手に自分の要求を続けるか、相手に期待するのを止めるか。

要求を続ければ相手も自分も辛い。今の相手に期待をしないとなれば、

期待に応えてくれて、より安心できる別の相手を見つけることになる。

 

もらうものか、与えるものか

愛情とは何だろうか、と考える。

人は異性だけではなく、物や動物、家族などを対象に愛情を抱く。

相手を大切に思う。相手の期待に添うようにする。

相手を悲しませないようにしようとする。

この場合は、「与える愛」が多い。相手からの見返りは期待しない。

例えば、犬を好きでたまらない、という場合を考える。

犬を好きな人は、犬からの愛のお返しを期待するだろうか。

犬が愛想をよく尻尾を振れば、それでこちらは愛を返されたと満足するだろうか。

犬が尻尾を振るのは愛ではなく、親しみを表現する一つの方法だと知っている。

犬からの愛は期待していないのである。

期待しているのは、犬が自分の前に存在していること。存在それ自体が大事である。

愛は見返りを期待しないもの。与えるもの。

 

異性の場合の愛

異性を好きになる、自分が相手のことを好きになる。

単に「好きだ」というだけで、そう思うだけで満足できる。

幸せな気分になれる。そんな時がある。

それがいつの間にか、

自分が思うだけでは満足できず、相手がどう思っているのかを知りたくなる。

いや、相手がどう思っているかは知りたくない。自分の思いを持続させる。

と、この二つの思いの間を行ったり来たり。

その内、相手と自分の新しい関係を期待する。

いつも会いたい、二人だけで会いたい、自分だけを見て欲しい。

相手を独り占めしたくなる。

そうするには相手に自分の気持ちを告白しなければならない。

相手が自分のことを何とも思っていない、と分りきっている場合、

相手も自分と同じ気持ちだと、自分に言い聞かせないと告白はできない。

少しでも脈がありそうな場合は、相手は自分の告白を待っている、と思い込む。

何らかの理由や解釈をつけて、相手に告白しようとする。

これは恋愛の儀式のようなもの。告白した結果、

「私も好きだ」と言われたら幸せそのもの。でもこれからどうしようかと悩む。

「嫌い」と言われたらショックは大きい。どこが嫌いなのか、と追求したくなる。

「何とも思っていない」と言われたら、まだ可能性はある、と言い聞かす。

 

「相手のことをもっと知りたい」と同時に、「相手の期待に応えたい」と思うようになる。

男は男らしく、女は女らしく、相手の期待している存在に、自分が近づこうとする。

相手が自分に対して描いた勝手なイメージに、無理やり当てはめようとする。

例えば相手がデートの予定をキャンセルしたとき、

本当はネホリハホリ相手に問い質したい。

でも相手はクールなイメージを自分に抱いていたとする。

すると、あれこれ詮索しないと安心できなくても、

クールに何事もなかったかのように片付ける。

 

社会と男性と女性

かつて、女性は男性の共有物だった、という話がある。

「共有物」とは失礼な、と思う方もいるかも知れない。これは昔の話である。

子供ができないとその社会は存続できない。いくら理想の社会を維持していても、

子孫を残せなければ社会そのものがなくなる。

また、外敵から社会を守るには兵力が必要である。兵力は人口に比例する。

人口を増やすには女性に子供を産んでもらわないとどうしようもない。

こうして、女性は男性の共有物として、社会の維持に必要であったという。

地方によっては「夜這い」という習慣があって、

未婚の女性の住まいに、未婚の男性が夜な夜な出かけて行く。

「夜這い」はお互いの相性を見る大切な機会であり、

これは結婚の制度ができても、地域社会に認められていたという。

結婚制度とは、

相手と自分の二人はお互いに占有物だと社会に対して宣言する制度である。

 

ライオンは一頭のオスが数頭のメスを占有して集団を作る。

オスは強くないと集団のリーダーとはなれない。

よそから来た別のオスに敗れると、勝ったオスが新しいリーダーとなり、

敗れたオスは集団を出てはぐれライオンとなる。

一夫多妻のハーレム状態。

これは現在でもどこかの国では実在している制度である。

日本でも、庶民は一夫一婦制だが、将軍家は江戸時代までは一夫多妻であった。

日本が一夫一婦制を導入したのはどうしてなのか。本当の所は分からない。

一夫多妻でも一婦多夫でもなく、一夫一婦制を選んだのは、

これが一番平和だからかもしれない。

相手が悲しむ顔を見たくない。相手が苦しむ顔を見たくない。

一夫多妻制では、妻である一人一人が夫を独占しようと思ってもできない。

それでは妻は不満を抱く。妻それぞれに子供ができたら、誰を後継者にするかで

もめる。そうならないために一夫一婦制にしたのではないか。

 

理想のアベック像

人それぞれに、理想とするアベック像があると思う。

「あんなアベックがいい」「こんな二人になりたい」

さて、自分の理想とするアベック像はどんなものだろうか、とふと考える。

筆者の思いを例に挙げてみる。

 

(ここから語り口調が変ります)

 

やはり、テレビの影響は大きい。

こんな二人がいい、自分も彼女ができたらこんな付き合い方をしたい、

というようなモデルがありました。

例えば松田優作。

「太陽に吠えろ」のジーパン刑事役でデビューしました。

このドラマでは彼女役はいなかったように思います.

山口百恵の出世作「赤い疑惑」の中で、松田が怪しい雰囲気で、犯人じゃないか

と思わせぶりな役をやっていました。

ストーリーはよく覚えていないけれど、最後に松田は死にます。

その時、松田の理解者役の中野良子が、仰向けに寝ている松田の口に

タバコをくわえさせるか、煙を口移しにするか、そんなシーンがありました。

もう一つのドラマ、「俺達の勲章」。テーマ曲は吉田拓郎が作り、演奏はSHOGUN。

横浜が舞台で、松田と中村雅俊が主演の刑事ドラマがありました。

この中で、松田は無口で冷静、中村は口うるさい役でした。

松田の彼女が彼に寄り添って、二人並んで何もしゃべらずに歩いていく、

それが毎回のラストシーンでした。

決してべたべたせず、それでいてお互いを理解しあっている二人、

そんな関係がいいな〜と思いました。

「探偵物語」の工藤ちゃん役の松田はニヤニヤへらへらして、

竹田かほりと、もう一人のかわい子チャンにもてもてでした。

この中でも、表面はニヤニヤしていても、自分の彼女という存在には照れがあり、

本気で付き合う相手には手も触れられない、そんな役柄だったと思います。

 

松田勇作。やはり、役者をしての彼の存在はでかい。

でれでれとした異性関係はどうしても似合わない。

お互いのことを分かり合っているから、でれでれ、ベタベタする必要がない。

そんな関係が疲れないし理想だと、いつのまにか思うようになりました。

 

それから

漫画の「タッチ」。

達也とみなみの関係が好きでした。

言葉で何も言わなくても、お互いのことを分かり合っている。

そんな関係がここでも出てきます。

 

恋愛も人生と同じ

世の中には男と女しかいません。

(オカマやオナベもいるようですが、ここでは省略します)

彼氏、彼女の関係は、それが好ましいものであるならば、

毎日の生活の張りになり、人生の生きがいに通じます。

ところがいいことばかりは続かない。喧嘩をしたり、冷たくなったり、疎ましくなったり。

彼氏と彼女の関係が人間関係である以上、それらは避けられません。

信頼と裏切り、期待と失望・・・。

お互いの関係が続く過程で、自分も相手も試されます。

恋愛も人生と同じで、長さではなく、中味の濃さ。山あり谷あり色んなことがあります。

そうでなければ不自然です。生(ナマ)ものだから。

 

情熱と平穏

若さは走りがち。それは当然なんだと思う。

二人の関係の持続に困難があれば、何とかして乗り越え、解決しようと努力をする。

二人のために、お互いのために。時には無理をして、周りにいる人の顰蹙を買う。

それもまた、若い情熱故なんでしょう。

エネルギーが保っているうちはそれでいい。

ところが、年をとるうちに段々エネルギーが減ってくる。

情熱に左右される毎日よりも、平穏な毎日を望んでしまう。

それがいいとか悪いとかの問題ではなく、その時の自分に合っているかどうか。

これが大事。背伸びをする必要はなく、無理に息を切らせることもない。

その時の自分に合った相手との関係を維持できたら、それが1番なんだと思います。

お互いの存在が空気のように、そこにあって当然という感覚。

別にイベントやクライマックスがなくても、

平穏な毎日の中に存在しているだけの関係。

これもまた、肩が凝らずにいい関係だと思います。

 

あとがき

たったこれだけで愛を語り尽くせたわけではない。

まだまだ、このテーマではいろいろなことが挙げられる。

しかし、ここでひとまず一区切りとしたい。

続編がまとまったらまた掲載するつもりである。

 

ここまでお読み頂き、ありがとうございました。m(__)m

H13.11.11

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