人間のエゴ(15.5.22)

 

まえがき

去年の10月から、コラムの更新をさぼっています。

個人的に忙しくなったということもあり、

またコラム以外のネタの更新で時間を使っていたからでもあります。

今回、久しぶりに書きたいネタを思いついて、まとめてみました。

 

昨日(15.5.17)、夜中というか朝の3時か4時に、

教育テレビの再放送のような番組をやっていて、夜更かしをする私は何回か見ている。

番組はいくつかあり、昨日は「みんな生きている」という番組で、

乳牛を育てている農家の小学校6年生の女の子の話題だった。

 

彼女が3才の時に生まれた母牛が病気になり、治療をしても治らない。

農家にとってはお乳が搾れないし、治療費はかさむ。

往診してくれる獣医は、治したいが農家の負担もわかる。

このままではまず治らない。と、なれば後は牛を処分するしかない。

食肉として処分するのである。小学生の女の子にとっては辛い別れ。

歩けなくなった牛が、機械でトラックの荷台に引きずりこまれ、運ばれて行く。

女の子は牛がいなくなった後、その牛がつながれていた場所に腰を下ろして、

牛をつないでいたロープの金具を手でつかんで物思いにふける。

そんな内容の番組だった。

 

化粧品

その牛の番組の後、ふと思い出した話題。

ずっと以前の、ある日の夕方、ニュース番組の中で、

化粧品と動物実験を取り上げていた。

 

化粧品を開発すると、安全性試験のためにどうしても動物実験をする。

アレルギー反応や吸収の仕方などを調べるため、解剖まですることになる。

実験動物を殺すことになり、そのための道具がある。

犬や猫の首を落とす道具、手などを切り落とすための道具・・・。

こうした道具は広告には出せない。陽の目を見ない、専門の世界で販売されている。

必要性があるから道具を作る業者がいて、それを使うメーカーがいて、

実験動物の犠牲の上に商品化される化粧品。

そうした実体を消費者は知っているのか。化粧品は必要なのか。

町に出て、レポーターが女性に聞いて行く。

化粧品の犠牲になっている動物たちを知っていますか。

あなたはそれでも化粧は必要だと思いますか。

そんな内容だった。

それを見ながら、自分は化粧をしないし、関係ない話だ、と私は思っていた(と思う)

 

人は化粧品のために動物を殺している。

そしてまた、

牛乳や乳製品を得るために牛をつなぎ、病気で治らない牛を殺して食料にしている。

 

犠牲

考えてみると、

人は他の生き物の犠牲の上に生きている。

動物、鳥、魚、植物、あらゆる生き物を殺している。

今更ながらにそう思ってしまう。

他の命の犠牲の上にしか、人間は生きられない。

 

生きものを殺すことを「殺生」という。

仏教では動物を殺すことは禁じられ、精進料理は菜食である。

しかし、人が生きて行く上で、動物性たんぱく質は必要な栄養素だ、と考えれば、

菜食だけでは限界がある。

それが、生きる上での最低限のレベルなら許される、というなら、

最低限とは何か、という話になる。

生命維持をそのラインとするなら、

スポーツ選手の食欲は許されない行為となってしまう。

一般の人の暴飲暴食も同じである.

許される、許されない、というのは人間側の勝手な理屈でしかない。

他のものの犠牲の上に生きている人間は、

生まれながらにしてすでに罪を背負っている。これをキリスト教では原罪という。

 

化粧をしない人は、化粧をする人に向かって、

「必要のないことで動物を犠牲にしている」と言えるかもしれない。

しかし、化粧をしない人も、動物の肉を食べ、病気になれば薬を使う。

医療行為を受ける。

薬を作るためには、化粧品以上に実験動物が犠牲になる。

治療法や予防法にも動物実験は欠かせない。

 

こうして考えてみると、

「動物を犠牲にしている化粧品の使用者」を批難できる人はいなくなる。

 

矢カモ

何年か前に、体に矢が刺さったカモが話題になったことがある。

最近では、同じような怪我をしていた白鳥が取り上げられたことがあった。

カモがかわいそうだ、と言っている人が、カモ鍋を食べているかもしれない、という

矛盾を感じたのは私だけではないはずである。

必要性のない、人の悪意によって怪我をした動物というのは、

取り上げやすい話題である。

 

毛皮

アメリカだかヨーロッパだか忘れたけれど、

毛皮を着るくらいなら裸になる、といって、街中を裸でデモをした団体があった。

毛皮のためにキツネやいたちを殺すのは残酷だ、というのが理由だった。

必要以上に動物を殺すな、というのはもっともだけれど、

デモした人たちだって肉を食べている。

 

必要性は立場によって変わり、絶対的なものはない。

 

たまちゃん

多摩川に突然現れたアゴヒゲアザラシ。

「たまちゃんを守る会」が見守り、

「たまちゃんのことを考える会」が捕獲しようとしてお互いに揉めた。

それが埼玉の荒川に移動したのか、今度は埼玉で騒動が起きている。

目に釣り針が引っかかっているのがわかると「かわいそうだ」「なんとかできないか」

と、専門家が集まって検討までする。

こうした話題を取り上げている人全てが、

牛を殺し、鳥を殺し、魚を殺し、あらゆる動物、植物を殺して得た物を食べている。

たまちゃんが「かわいそうだ」と怒った人が、

その帰り道に焼肉やに寄っているかもしれない。

 

ペット

子犬をペットショップで見つけた娘が、父に欲しいという。

父は、給料日前だからとんでもない、と返事をしながら、子犬の視線に釘付けになる。

そんなCMが話題になり、

今では結婚式の衣裳を子犬と食い入るように見るCMが流れている。

 

ペットと言えば思い出す。遠く70年代には、スピッツと呼ばれた犬がもてはやされた.。

白くてよく鳴く。番犬にはもってこい。そんな理由だったのかどうなのか。

マイカー、マイホーム、そして犬のペット。それがお金持ちの必需品。

ところが、いつの間にかスピッツは姿を消す。

鳴き声が近所迷惑になり、小形の座敷犬が流行るようになる。

人間の都合でペットショップで商品化され、流行が変わると捨てられて、

野良犬となる。そして保健所に集められ、引き取り手がなければ殺されるペット。

 

感性と矛盾

人間以外の動物については、

目に見えるものに感心が集まるのは仕方がない。

目新しいものに話題が集まるのも仕方がない。

しかし

表面的なものだけで、本質を抜きに議論するのは簡単であり、また無意味でもある。

「かわいい」とか「かわいそう」という感情論では、限界がある。

人の存在そのものが、他の生き物の犠牲の上に成り立っているので、

主張に説得力がなくなる。

化粧をする人もしない人も、毛皮に反対する人も、たまちゃんに夢中になってる人も、

矢カモに怒りを感じる人も、ペットに夢中になっている人も、

立っているラインは同じ。

みんながみんな、足元の犠牲に目をつぶっている。

 

「かわいそうだ」とか「かわいい」と感じる感性は大事である。

それはなくしたくはない。しかし、感情論は主観の問題であり、

他の人と議論をしたり、相手を説得する場合にはあまり効果はない。

感性で他の人を批判したり、説得することは期待できない。

 

大事なのは、

感性を自分のものとして維持しながら、他人に強要せず、

自分の存在そのものが他の動物の犠牲の上に成り立っている、

という矛盾を認め続けること、ではないか。

 

去っていった牛の使っていた金具をつかみながら、物思いにふける女の子の姿が、

全てを物語っているように。

 

あとがき

久しぶりにまとめてみて、落ちがない、と気付く。

思いのままに書いて、それでよしとするには何だか不完全燃焼の感がある。

実は、あとがき、と書いたところで止まってしまった。

何を言いたいのか、というテーマが書いているうちにぼやけてしまった。

何回か読み直し、手を加えて、数日かかり、

とりあえずこのままで掲載することにしました。

15.5.22

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