外見 (16.9.11)
はじめに
毎週金曜日のNHK教育テレビは、金曜かきこみテレビ。
小学生から中学生が掲示板に書き込んで、そのテーマで番組の出演者が討論する。
昨日のテーマはファッション。
「金髪の友達が遊びにきて、家族は何事もなく迎えたけれど、
友達が帰った後、祖父母が自分のことを冷たい目で見てた」
とか、そうした書き込みを見ながらふと考えた。
見た目
高校生の頃、親父に頼まれてバイクで銀行に行き、小切手を現金に換えようとした。
窓口の係員は、
私が換金するには委任状が必要だ、と言う。
家に帰って親父に「こう言われた」言うと、親父は当たり前だ、という。
バイクでサングラス。それは普通の格好だった。
別にサングラスが犯罪とは関係ないだろうけれど、人は外見で中身を推察する。
それが世間だ、という考えが納得できなかった。
最近、茶髪が流行っていて、見るからににあわないだろう、という人もいる。
髪の毛を染める。
これはファッションなのか、よくわからない。
個性を示すことが許される、その範囲はどこまでなのか、これもよくわからない。
例えば
病院に行く。
病気で病院に行くのに、スーツを着たり、お出かけ着でおしゃれをする患者。
多分、医者や看護婦、病院職員に失礼がないように、という昔からの伝統なのか。
駅前のそごうに行く。
正装をして、お客は買い物をする。お客が何で店に対して気を使うのかがわからない。
レストランに行く。
ホテルのレストランではサンダル履きはお断り、というところがある。
正装でないと駄目なところもあるらしい。
身だしなみ
相手に対する礼儀。
相手が不快感を感じないように、身なりを整えること。
相手は不特定多数だから、平均的なラインで整える。
だから多くの人の認める範囲で、ということになる。
しかし、平均的なラインは時代によって変化する。
明治時代、女性が太ももを人前にさらすことははしたないことだと思われていた。
だからオリンピックの陸上に女性ランナーが参加することはとんでもない、といわれた。
今では考えられないこと。
足や腕をさらし、胸を谷間まで見せて普通。
現代では特別なことではない。
正装
大学の卒業式。
女子は袴姿の人もいる。伝統というか過去のものになってしまった日本の正装。
本来、日本は着物が主役だった。
明治維新以来、西洋の服が入ってきて現代につながる。
だから洋服。洋服に対して着物は和服。昔は和服とは言わなかったはず。
洋服が正装となったから、現代では紋付袴でレストランには入れない。
失礼がないように、という身だしなみでいえば、
日本文化を守ることは失礼ではないはず。
それはともかく、
身だしなみの許される範囲、平均的なラインはこれだ、というものはない。
個人の尺度の中にそれぞれある。また、地域や国、その場所の文化によって決まる。
葬式に礼服。真夏でも黒い上着を着る。
儀式にはそれが当たり前。
死んだ本人には意味がない礼服。
遺族や集まった人たちに対する礼儀として、礼服を着る。
普通の一般的な葬式ではそうだけれど、
普段着で集まったからと言って、
それが亡くなった人に対して失礼ということはないだろう。
そこに集まった人たちにとってどうなのか、が問題。
相手に不快感を与えないのが礼儀だとすれば、
白髪は染めた方がいいのか。
胸のない女性はパットを入れたほうがいいのか。
年寄りは肌のしわをなくす方がいいのか。
明らかに太っている人はやせたほうがいいのか。
礼儀とファッション、美容と健康がごっちゃになると、
何を目安にしていいのかがわからなくなる。
コンビニ
バイクに乗るときにヘルメットが義務付けされたのはもう30年近く前。
それまではヘルメットはかぶらなかった。
その後、コンビニ強盗がヘルメット、
それもすっぽりかぶるフルフェース型を使って
犯罪を起こすことが増え、それから、
入店時にはヘルメットをとる、というのが当たり前になった。
お客の顔が見えないのは店側では不安。
寒い冬、バイクを降りてあったまったヘルメットを脱ぎたくはない。
けれど、店員に不安を抱かせるのは悪いから、面倒でもヘルメットをとる。
サングラスと手袋はとらない。
サングラス
紫外線が眩しいのは昔からで、普段でかける時にはサングラスをかけている。
夜、車を運転するときにはかけたりかけなかったりだけど、
ス-パーによっては、蛍光灯をこうこうとつけて、
昼間のようにあっかるくしている店がある。
暗い駐車場でサングラスを取り出し、店に入る前にかける。
もう20何年前、誕生日に、船橋のららぽーとに奥さんと買い物に行った。
当時は市川に住んでいて、おでかけというとよくららぽーとに行っていた。
二階にあるめがね屋で、サングラスを買った。
当時で15000円だったと思う。
ガラスで紫外線が当たると黒くなる調光レンズ。
形はありきたりの、洋画「ジョン&パンチ」で登場するサングラスの形。
ウインドブレーカーのポケットや、最近ではポシェットの中に入れているから、
鍵と一緒でレンズは傷だらけ。
それでもいつも使っていた。
それがいつの頃からか、メガネの傾きが気になるようになった。
左側が上がっている。気になるから、枠をひねって下げる。
これを繰り返していたら、2年位前に枠の一部が折れた。
かろうじてまだ一部つながっている。このままではサングラスが使えない。
わかっていてそのままにしていて、とうとう二つに分かれて使えなくなった。
すぐにめがね屋いって修理を依頼。でも、断られた。
直しても完全には直らない。新しいのを買ったほうが速くて確実だ、といわれた。
その後商品を選んだけれど、値段ほどのものはない。
あきらめて、帰り道にドラッグストアに寄った時、1000円のサングラスが売られていて、
その中に気に入ったものがあったので購入。
小さいレンズだが、ないよりはまし。
最近までこれを使っていたけれど、どうにも使い辛い。
調光でないので、夜は使えない。
で、しまっておいた壊れたサングラスを別のめがね屋に持ち込んで、修理を依頼。
できあがって今はそれを使っている。
あの時、この時、私はこのサングラスを使っていた。
写真や記憶に残る場面では、私はこのサングラスをかけている。
視界に人の視線が直接入ってくることを避ける、生の自分をさらけだすことを避ける。
サングラスにはそうした意味もあるのかもしれない。
今では、視力の悪い人が色付きのレンズを使うことは珍しくなく、
世間の中で色付きめがねは氾濫している。
色の濃さがどの程度なら、相手に不快感を与えないか、というのは主観の問題。
話していて相手の目が見えないのは、こっちを見てるかどうかがわからないから
変な感じだ、と奥さんが言ったことがある。
身分証明
道路の交通検問で免許証提示を求められることがある。
携帯電話を買う時に、免許証で身分証明をすることがある。
市役所で、あちこちで、身分証明をするときに免許証を見せる。
こうしたとき、サングラスは外さない。
面倒な時は先にはずして手続きを早く済ませてね、という意味をこめる。
しかし、交通検問では酒気帯びが目的らしく、サングラスを外せと言われたことは、
多分ない。記憶にないから。
仕事中も眩しいから本当はサングラスを使いたいが、それは許可されないので、
透明ガラスで紫外線カットのめがねを使っている。
許可されない理由は不明。だが、深くは追求するつもりはない。
外すと眩しくて、目を細めるので疲れて仕方がない。
伊達メガネだと笑われようと、眩しいものは仕方がない。
メガネは必要。
ひげ
ずっと昔、ひげを生やしていたタクシー運転手が解雇されて裁判を起こした。
タクシー会社は、ひげはお客に不快感を与えるという理由で解雇。
運転手は手入れはしている、身だしなみの一部だ、と主張。
判決は運転手の訴えが認められ、復職。
年長者の中には、ひげは偉い人の象徴、というイメージがある。
私も若い頃はひげを生やしていた。
剃るのが面倒というのもあったけれど、カミソリ負けをして、
毛穴から出血しやすかったので剃りたくなかった。
当時の写真を見ると、ひげが似合っているとは思えないが、
若い、という感じはする。
イチローが無精ひげを生やしたままで活躍している。
あれは武者修行というメッセージなのか、と私は見ている。
対する松井は二人ともひげは剃っているし、目立ったヘアカラーもしていない。
平均的な日本人の外見でアメリカという多民族文化の国の中で活躍している。
柔軟性という点では、アメリカが先進国。
日本は単一民族国家といいながら、実は多民族国家。
思想や文化だけを統一しようとしているだけ。
実は、色々な国から先祖はきているし、
それぞれ地域の特性をもっているし、色々な考え方がある。
日本ではこうだ、というイメージの中で、窮屈を感じている人は少なくないと思う。
人間性の指標
外から見える服装やファッションで、その人の人間性がどこまでわかるのか。
当てにはできるけど、確実ではない。
ボロボロの身なりをしているから、その人が悪い人か、というとそうとは限らない。
スーツをビシッと着こなしているから信用できるか、というとそうとは限らない。
当たり前の服装をしていて信用できる人が一番わかりやすくていいのだが、
そう簡単にはことは運ばない。
初対面の場合は、まず警戒心が先に立つ。これは当然。
この時、できるだけいい印象をもってもらおう、という意図があって、
外見を整える。
だからといって、全てを信用するわけではない。
身だしなみという常識ラインを考えられる人かどうか、を見せたり、見たりして、
推察しながらかかわりをもつ。
関わって行く中で、信用したり、失望したり、現実の相手を判断する。
相手を信用させて犯罪を犯そうという場合は、できるだけ見た目を良くする。
逆に、信用されなくてもいい、という場合は、外見は気にしない。
ファッション
流行に乗るか乗らないか。
遅れてる、といわれないように、あくせくして、横並びの外見を保とうとする。
流行とは、一般化した時点でもう時代遅れ、という考え方もある。
共通した話題を持つために、どうでもいいことにも関心を持ち、過剰に反応する。
それも協調性という範囲なら許されるのかもしれない。
遊びの範囲ならいいのかも。
普段の服装
私の普段着は、
下はジャージ。これはオールシーズン。
上は、夏はTシャツ、冬はトレーナーにウインドブレーカーかジャンバー。
履物は、裸足にサンダル。冬は靴下を履くこともある。
これでどこへでもいく。
職場も、そごうでも病院でもファミレスでも。
正装が求められるところには行かない。
一緒に歩く奥さんはもうあきらめてる。
家の中では、
下はパジャマのズボン。
上は夏は裸。気温が下がると、下着のシャツ、パジャマの上着、
真冬は家の中用のジャンバー。
インターホンが鳴って、宅急便がくると、夏はシャツを着てドアを開ける。
一応裸では失礼かと思う。私は別に構わない。でも、来た人がびっくりするだろうから。
昔は夏は裸が当たり前。
クーラーがない時代。風呂上りにくつろぐには上半身は裸。
今、リビングにはクーラーがある。
私は殆ど使わない。
奥さんが暑がりだから使う。
一人の時は窓を開けて汗を流しているので、上半身裸はなんともない。
時々、風呂場へ行って水を浴びる。
これが夏の過ごし方。
誰かとどこかで待ち合わせをする。
電車やバスに乗ることは滅多にない。車で移動だからジャージのまま。
たまに、電車・バスで都内にいくときがある。
旅行に行く時もある。そうした時は、Gパン。
自分の自由な服装でいいのであれば極力ジャージ。これが楽。
子供の頃、高校生くらいまではGパンや、普通のズボンをはいていた。
普通のワイシャツを着ていた。
しかし、20才頃にどうにも窮屈になって、それからはジャージ。
世間でジャージが広まってきたというのもあったと思う。
あれから26年あまり、ジャージとの付き合いが続く。
おしゃれ
たまの休みにおでかけする。
普段と違った服装をする。それは楽しみなのかもしれない。
服装で気持ちが変わる。
普段とは違う服を着て、普段とは違う行動をとる。
昔の日本の労働者は、休みには普段は着ない服を着て買い物や映画にでかけた。
「竹田の子守唄」の中に、
盆が来たとて なにうれしかろう かたびらはなし 帯はなし
というのがある。
お盆にふるさとへ帰る。
お金をもって、いい服を着て帰りたいが、それはできない、という意味だと思う。
普段の労働がそれ程苦ではなく、楽しみを休日に期待しなくなる。
年をとると、段々日常生活にイベントがなくなる。
そうなると、とりたてて、おでかけに気を使うことがなくなる。
でかける気にもならない、というのもあるが、
職場が離れていると、それが外出であり、その時の服装が日常化するので、
休日に非日常を求めた時に、なんだか特別ではなくなるのかもしれない。
サラリーマンはスーツ姿。
電車やバスに揺られて毎日通勤。
休日にはスーツは着たくない。で、カジュアル、普段の外出着ででかける。
そうしたパターンが社会の中で浸透し、
お父さんが休日着る服は決められたものになる。
しかし、本当はもっと楽な服装をしたい、と思っているのではないか。
ユニホーム
仕事でユニホームを着る職業がある。
仕事に必要な理由があれば仕方がない。
ユニホームは、さあ、仕事をするぞ、という気持ちの引き締めになり、
普段の自分から、働く自分に切り替える。
お客の側からは、この人にこの仕事を任せる、という目印になる。
しかし、ユニホームが仕事の実際とずれていることもある。
ユニホームがファッションの意味を持つ場合もある。
コックの帽子は髪の毛を全部被うものでなければ意味がない。
偉いコックはなが~い帽子をかぶるらしいけれど、邪魔であんまり役に立たない。
シンボルとしての帽子でしかない。
警察官はユニホームを着るが、捜査では着ない。
私は警察官だ、と言っていい場面でも着ない。
潜入捜査でない普段の聞き込みでもユニホームは着ない。
交番勤務の巡査と、偉い幹部はユニホームを着る。
なんでなのかわからない。
長髪
以前、長髪は若者のシンボルだった。
反体制、大人への反抗、70年代のフォークシンガーは殆どが長髪。
それが流行りだった。
長髪で、ひげを生やし、ギターを持ってたばこを吸い、だるそうに歩く。
Gパンは裾の広がったラッパ。洗いざらしがおしゃれ。
ボロボロの服を着て、よれよれの背中。
それが若者のスタイルだった。
現代では、髪の毛は逆に短髪が多い。だから長髪は目立つ。
メディアを通して、ああなりたい、という理想があり、
それに近づこうとしてものまねをする。
それは時代に関係なく、若者の傾向。
と、すると、おしゃれやファッションに無関心になるってことは、
理想や夢がなくなって、目標とするものが見えないから、どうでもよくなる、ってこと?
40代後半になって、こんなおじさんになりたい、という理想は・・・ない。
自分が子供の頃、46才のおじさんは、とってもおじさんに見えた。
悟りきり、動じなく、大人の男として写っていた。
しかし、自分がその年になると、気持ちはあんまり大人、という気がしない。
やってることは変わってない。
ただ、好かれようとか、嫌われないように、という気遣いは少なくなっている。
もう恋愛に敏感ではなく、情熱を傾ける気力もなく、
日常生活を流れるままに過ごしているから、どうでもよくなっている。
退廃的とか、妥協という表現は、マイナスイメージがあるけれど、
適当にという馴染む姿勢は、疲れを最小限に生きようとする智恵であり、
体のあちこちに故障が出やすいお年頃の中年にとっては、必要な術なのかもしれない。
あとがき
休憩を入れながら、思いつくまま書いてみました。
外見で人を判断しやすいけれど、外見だけでは全てはわからない。
目で見えるもの以外の、言葉や行動など、外から見えるその人の姿が、
その人の全てではない。
問題はあくまで中味。
外見で見下すことも尊敬することもせず、そこにいるその人に興味を持つことが、
人とのかかわりの基本なのかもしれない。
拙い文を読んでいただき、ありがとうございました。
平成16年9月11日