生きること、自殺

 

まえがき

死にたいと思っている人に、何が言えるだろうか。

今は「生きる、死ぬ」など何も考えていないけれど、

人はいつか、生きることの壁にぶつかると言う。

その時、何が言えるだろうか。

「生きるため」のアドバイスというより、

「こんな考え方もあるんだ」ということを知って欲しくて、

思いつくままにまとめてみました。

 

今が辛い

生きるのが辛い、と言う人の話を聞くことがあります。

どんなに頑張ってみても辛い状況というのがあって、

その辛さは本人しかわかりません。

「生きていればいいことがあるよ」というのは、可能性の話であり、

今の辛さをやわらげてはくれません。

「いいこと」っていうのは個人の主観だから、同じことがあっても、

ある人にはいいことで、ある人にはなんでもないこと、という場合があります。

「死ぬ気になったらなんでもできる」という励ましは、

生きられる人にとっては、効果があるのかもしれません。

生きる希望を失ってしまって、何もできない人の辛さをやわらげてはくれません。

 

自分が安心できるのは、眠っている時だけ。

起きていて目にするもの、耳にするもの、考える事柄の全てが「辛い」とき、

自殺を考えるのかもしれません。

 

自殺は救ってくれるか

今の辛い状況を、自殺は救ってくれるだろうか。

その保証はない。でも、生きてる今の辛さから逃れる方法は、自殺しかない。

そう考えてしまう。

自殺した後、今より余計に苦しむ可能性というのも否定できないけれど、

それでも、今現在の辛さが頭の中に充満しているとき、

自分で自分を殺すしかない、と考えてしまうのかもしれない。

安らぐ保証のない選択が自殺だと知っていながら。

 

こんなに辛いのになんで人は生きるのだろう、と考えてしまう。

生きる理由が否定できれば、自殺を肯定できる、と錯覚する。

生きる理由がないままに、生きてもいい。まず、それを認めてみる。

生きるのに理由がいるか、と開き直ってみることができれば・・・。

 

生きる権利と死ぬ権利

法律では生きる権利が認められている。

しかし、死ぬ権利は認められていない。

生きるのは、権利が認められているから生きる。これは正解だろうか。

権利が認められていようと、いまいと、生きるのが本来の姿である。

と、まず、そう考えてみる。

何故、そう言えるのか。

 

身体は正直

自分の身体は生きようとしている。

呼吸をし、心臓を動かし、栄養を取り込み、いらないものを排泄する。

そうした身体の働きは、理屈ではない。

生まれた時から、生きるために必要な活動は休むことなく続けられている。

反応として、理屈抜きで、身体は生きようとしている。

生きるのをやめようとして、呼吸を止めれば苦しくなる。

なんで苦しくなるのか。

生きることを身体が望んでいるから、警告を発して苦しさを自覚するようにできている。

 

風邪をひく。身体は風邪に対抗しようとあらゆることをする。

身体の熱、体温を上げて、細菌やウイルスの働きを弱めようとする。

体温を上げるのに、考え(意志)は必要ない。生きるための活動の一つだから、

考えないでも体温を上げる。

 

切り傷を作る。

傷からは血が出る。しかし血はやがて止まり、かさぶたを作る。かさぶたの下で、

傷は開いた口を閉じるように段々に小さくなって、やがて閉じてしまう。

こうした皮膚の細胞の働きは生きるための活動の一つだから、

考えないでも、傷を治そうとする。

 

考えてみると、

人は生まれてくる前から、生きようとしている。

精子に意志はない。卵子に向かって前進あるのみ。

卵子に意志はない。準備ができて卵巣から卵管に排出され、

精子が飛び込んできたら、壁を硬くして受精卵となる。

受精卵は細胞分裂を繰り返し、やがて人となり、母体から離れて・・・。

 

身体は生きようとしているのに、考えは死ぬことに向かってしまう。

この矛盾はどう解決すればいいんだろうか。

「生」が辛く、「死」も辛い。

生と死のどちらをでもなくて、ただ自分の身体を傷つけてしまう場合もある。

 

人の気持ちは変るもの

死にたいくらいの辛さの内容は別にして、「死にたい」という話を聞く時、

もったいない、と私は考えてしまう。

今、死にたくても、いつか気持ちが変るから。

以前からずっと「死にたい」と思ってた人も、この先気持ちが変ります。

人の気持ちは変るもの。それはみんなが経験しています。

 

参考書

私が19才の時、死ぬことを考えました。

毎日毎日、頭の中で、生きること、死ぬことを考えていました。

ある日、本屋で自殺関係の本を見ました。

明治時代以後、生きること、死ぬことを考え抜いて、

自殺した人たちの考え方を取り上げて、それがどういう結論になって、

本人はどうしたのか、という話が載っていました。

 

藤村操という人は、日光の華厳の滝に投身自殺をしました。

飛び降りた場所のそばの木に、「生きることは不可解だ」

という意味の遺言(曰く、不可解)をきざんでからの自殺でした。

 

死ぬことを願う人の気持ちを追求した話もあります。

大人になることは穢(けが)れること。汚い大人になりたくない。

若くして純粋なままに死を願う、夭逝(ようせい)願望。

或いは、現在の生に疑問を持ち、

死ぬこと、そればかりを考えてしまう時期が誰にでもある、と言います。

それが思春期か、青年期か、壮年期か、老年期か、

ひとそれぞれに違うそうです。

 

死を考える

今の辛い状況がどういうものか、を客観的に考えてみる。

何をやってもうまく行かない。生活が辛い。毎日の生活が辛い。

辛さからの逃避、生とは別の選択としての「死」。

とにかく死ぬにはどうしたらいいか、とそればかりを考える。

これとは別に、「何で生きてるんだろう」「生きることに意義があるのか」と

追求する場合もある。

死について考えると答を急ぎがちになる。

急ぐ必要はないのだけれど、ついつい急ぎがちになる。

 

生きることの善悪

生きることは善か。何故そう言えるのか、と考える場合がある。

生きることが悪だとしたら、死は善か。

ところがそうはならない。善でも悪でもないこともある。

 

何故という問いの迷路

何故という問いに対して、答のない迷路がある。

何故私は生きているのか。呼吸を止めないから。

何故呼吸を止めないのか。苦しいから。

何故苦しいのか。酸素がなくなるから。

酸素がなくなると何故苦しいのか。細胞の活動が出来なくなるから。

酸素がなくなると何故細胞の活動ができなくなるのか。活動には酸素が必要だから。

活動に酸素が必要なのは何故か・・・・・・。

 

「何故」という問いに対する答えの行き着くところは、決まっている。

 

何故そう考えている、と言えるのか。今現在そう思考しているから。

この「思考している」という答えが限界である。

何故という自問自答の行き着くところはこれである。

 

ロウソクの炎

ロウソクの炎が燃えている。これを息で吹き消す。

すると、炎は消える。当たり前である。

では、消えた炎はどこへ行ったのか?

今まで見えていた炎は、確かにそこに存在していた筈。

それが消えて、さてどこに行ってしまったのか。

答えはナンセンス。意味がない。

この問、「ロウソクの炎は消えてどこに行ったか」という問い自体が、

意味のない問だ、というのが答えである。

考えること自体が意味がない。

言い換えると、「答えがない」というのが答え。

生きることは善か悪か。これも同様。

生きる意味は何か。何故人は生きるのか。これも同様である。

 

ハエとトンボ

ある人にとっては、頭の中に、「死」の考えが飛び回っています。

初めはハエのように、速く、うるさく、頭の中を飛んでいます。

うるさいハエは、いつか、蚊になり、飛び回る半径が段々大きくなります。

頭の中の「死」というハエは蚊となり、その後トンボにかわり、

頭の中を大まわりにまわって、何日かしてたまに思い出すような、

そんな「死」になります

初めはうるさいから、疲れて、「死」を選んだとします。

でも、もう少し先になってみれば、うるささがやわらぎます。

それは、経験した人は知っています。

私も知っている一人です。

 

残された者の辛さ

若くして飛び降り自殺した人の葬式に出席したことがあります。

18才で真面目すぎて、疲れた男の子の葬式。家族や友達には残酷です。

本人の顔は安らかですが、残った者は自分自身を責めます。

本人も辛かったというのはわかります。

でも、残った者の辛さは、どう救えばいいんだろう、と考えてしまいました。

辛い時期に、適切な治療やカウンセリングを受けていたら、と悔やまれます。

「初めはハエ、それがいつかトンボになる」

これをわかっていてくれたら・・・。

自殺は残された者に、後悔を残し続けます。

 

死に方の色々

死に方には色々あって、

飛び降り、飛び込み(鉄道、自動車)、薬物(劇物、睡眠薬など)、

入水(海、川、湖)、吸入(ガス、排ガス)、首吊り、切創(手首、頚動脈)、焼身・・・。

 

楽に死ぬにはどうしたらいいか。どれも努力を必要としそうです。

衝動的に行動を起こさないと、とてもじゃないけど、怖気づいてしまいます。

 

例えば飛び降り。

ビルから飛び降りようとして、今、足が空中に飛び出した、とします。

もう、屋上には戻れない。

そのときになって、「あ、やっぱり、あれをしておけばよかったな」

と、そこで気が付いても、もう遅い。もう、屋上へは戻れない。

こうならない、という保証はない。と、いう話もあります。

 

飛び降りた後、そのまま気が遠くなってなにも分からないままに死ねるか、

というとどうもそうでもないらしい。

地面に叩きつけられて顔面は崩れていても、

場合によってはしばらくは意識があるらしい。

その時に「やっぱり失敗だった」と思うかもしれない。

 

海に飛び込んで死んだら体はパンパンになります。

海では岩に当たってボロボロになり、魚に食われます。

魚にとっては餌だから。

海で死ぬと、腸の中にガスが溜まって、体全体がパンパンに膨れて浮いてくるから

発見はされやすい。金魚が死ぬとパンパンになるのと同じです。

 

では、薬はどうか。

睡眠薬を沢山飲むと楽に死ねるか、というとそうでもないらしい。

多分、胃が受けつかなくて、吐くことが多い。

いろいろ死に方が書いてある本がありました。

「自殺のすすめ」だったかな?

 

死に方より休憩の仕方

死ぬための方法を考えるより、今の辛さをやわらげることを考えた方がいい。

時間稼ぎでも、今の辛さをだましだまし、やっていけばいつか、

トンネルは抜けられます。

 

例えば、

今の辛い状況を何とかしようと色々な活動をしてみても、無理は続かない。

もし、活動をするなら、失敗しても自分を責めないように。

元々、無理な状態だった、と思って。

そして、

あまりにも辛いのなら、一時的に精神科の病院を受診をすることも必要です。

精神科というと偏見があるかもしれない。

一般社会とは別なものという見方をされるかも知れない。

精神科など、病院を受診することは敗北ではない。

疲れたとき、利用すべき社会資源である。

熱があれば解熱剤。それと同じように、眠れなければ睡眠薬。

一時的に体を休憩させ、頭も休憩させる。必要がなくなれば薬は使わない。

必要最低限の治療を受けるのは、内科も精神科も同じ。

 

自殺願望は一時的

精神科医の大原健士郎は、

自殺には急性自殺と慢性自殺がある、と言っている。

 

急性自殺は文字通り、衝動的に自殺行為をすること。

衝動的だから判断の誤りに自分で気付かない場合があり、

衝動性を予防していれば自殺を防げると言えます。

 

慢性自殺は、これ以上続けると死ぬことにつながる、と分かっていても

その行為を止めないことだという。

例えば飲酒。毎日飲み続けて、肝臓の機能が低下して命に関わる、

と分かっていても飲酒を止めないのは慢性自殺だといいます。

それから、自動車やバイクのスピード。

これ以上スピードを出し続けると、事故を起こして死ぬかもしれない、

と分かっていてもスピードを落とさないのは慢性自殺だと。

 

何故危険をおかしてまで酒を飲みつづけ、スピードを出し続けるのか。

日常生活の不満がはけ口を求めて、そうした行動に駆り立てているのか。

自分を死に至らしめる行為を継続する、その原因や背景を追求して、

それらを解決、緩和することができれば、自殺行為は防げます。

つまり、急性、慢性、いずれも、自殺には選択肢があります。

状況を整えさえすれば、自殺に至らないで済む。そういう場合が多い。

ここが肝心です。

自殺を考えている状態は一時的なものである。

それが一時的な判断が全てを決定する、というのは誤りである。

 

そしてまた本屋へ

生きること、死ぬことを考えていた頃、本屋でまた別の本を見つけました。

加藤諦三の「もう一度生きなおそう」という本です。

死ぬこと、生きることを考えていながら、無意識に生きることを考えている。

もう一度生きなおす・・・こりゃなんだ。

現実の生活の中で、実際にある悩み。

例えば、毎日の仕事が辛くて辛くて仕方がない。

これはどういうことか。何で辛いのか。

働く、とはそもそも何か。そんな話が載っています。

よくは覚えていないけれど・・・。

 

社会と個人

人間は昔は狩りをして生活していた。

集団で野生の動物を追いかけ、仕留めて栄養にする。

一人で猟をするより数人の集団で分担した方が能率が上がる。

より多くの食事を手にすることができる。

ある者は動物を落とし穴などの仕掛けへと追い込む。

ある者は仕掛けにはまった動物を仕留める。

ある者は、仕留めた動物を解体する。

こうして、個人は集団行動をとって生活をしていた。

この時、集団(社会)は個人のために存在していた。

個人が豊かになるために社会があったのである。

 

会社人間。会社のために個人の生活を犠牲にする。

それが美徳のように評価される。

現代では「社会のために個人がある」と勘違いをしやすいが、

しかし、元々は「個人のために社会がある」これははっきり認識するべきだ。

こんな話とか。

 

優越感と劣等感

優越感で満足する人、幸せを感じる人は、劣等感を感じてしまう。

人と比べて自分がどうかを判断する。判断基準が人との比較。

その結果、勝っていれば優越感。劣っていれば劣等感。

絶えず比較していないと安心できない。しかし、それは勘違いである。

例えば、片腕がない人がいる。両腕のある人と比較したら、ないものは劣等感を抱く。

しかし、片腕のない人は幸せを感じている。残った腕で、洗濯ができる。

人のために仕事ができる。それが自分の幸せだ、とその人は言う。

では、両腕のない人は幸せを感じられないか。

私には両足がある。足で手の代わりができる。

腕はなくても私は幸せだという人はいる。

そう。

幸せは人との比較ではない。主観の問題である。

比較は絶えず不安を抱く。

比較を捨て、優越感を持たなければ、劣等感も持たずにすむ。

 

試験の点数。誰々より何点上だったと喜ぶ。これは比較しての優越感。

自分が一生懸命やった結果としての点数であるなら、比較は必要ない。

一生懸命やった自分を褒めればそれでよし、である。

一生懸命やらなかったら、いくら点数を取れても不満は残る。

そんな話が色々載っている。

 

生き方、ものごとの捉え方。常識と非常識。勘違い。「生きがい」とはなにか。

その他諸々。難しい話ではない。簡単に解説している。

この本を読みながら、何となく肩の力が抜けて楽になった。

そんなに急ぐことはない。自分の人生。自分にしかできない生き方。

自分にしかできない仕事。

試してみようか、と思ったのかどうなのか。良くは覚えていないけれど、

この時から以後、私の生き方が少し変った。

 

あとがき

生きること、自殺について、思うままに書いてみました。

今現在、辛い思いをして、自殺願望を抱いている人に、

一体何が言えるだろう。

「生きることは素敵なことだ」と人に勧めるつもりはありません。

「それでも生きろ」というよりも、「少し休んでみたら」と、それしか言えないのか。

何かしらの縁でこのページをみて頂いた方の中で、

「生きることに絶望している」という人がいたとしたら、

そういう人に生きる希望を与えられる内容だとは思っていません。

ただ、「ハエとトンボ」「答えはいらない」・・・そんなことを知って欲しいんです。

 

平成14年2月17日

 

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