長渕剛(15.8.21掲載)(15.12.27更新)

 

まえがき

先日、知り合いの音楽部屋で「つよしは好かん」と言ってしまった。

その場にHNの「つよし」という人がいて、その人は長渕のファンで、そのHNにしたという。

すぐに申し訳ないことを言ってしまった、と反省した。

そして、曲を流している部屋主の人にも、

次の曲はまずいかな、片方は好きで片方は嫌いだから、と気を使わせてしまった。

好き嫌いは個人の問題でそれは仕方がないけれど、

つい、言ってしまったことでなんだか反省してしまった。

 

なんで私が長渕を好かないのか、それは私だけの好みの問題であり、

あらためて説明する必要もない。

しかし、敢えてここに掲載することで、本来の長渕剛は違うのではないか?

と思い、まとめてみました。

 

出会い

もう20年以上も昔のこと。

「乾杯」の歌が、学生の集まりの場で、コピーされていた。

歌詞カードに「乾杯」

私以外の人はみんなその曲を知っていた。

それ程有名な曲なのか、と感心した覚えがある。

それが長渕剛の曲との出会い。

その後、何年かして、友達がライブ録音のテープを持っていて、ダビングさせてもらい、

その中で気に入った「祈り」「夏祭り」等を聞いていた。

曲はいい、ギターの腕も飛び抜けている。

そうした長渕のイメージが、段々変化して行く。

 

石野眞子

アイドルだった彼女と長渕の結婚。

それが数年で破綻。

別に誰とくっつこうと離れようと、それは当人同士の問題だからどうでもいい。

ただ、彼女はその後再婚。

芸能界に復帰。アイドルから女優になり、また新しい世界を開拓する。

 

俳優

「家族ゲーム」

確かこんな題名のドラマで、志穂美悦子と競演していた。

ラーメン屋の話だったか、何回か見たことがある。

その競演がきっかけで志穂美と結婚。

彼も再婚した。

 

国生さゆり

映画か何かの競演で、長渕と彼女の関係が噂され、マスコミが追いかける。

ワイドショーが長渕の家の門に押しかける場面で、彼はレポーターたちを威嚇。

怖い存在をアピールしていた。それをマスコミの側もおもしろがって報道。

 

HEYHEYHEY

何年か前に、この音楽番組に出演したことがあった。

ダウンタウンの二人も、長渕を怖い存在としておもしろがり、

そして話の中で、長渕が少林寺拳法をやっている、という話題になり、

板を浜田にもたせて足だか手だかで割っていた。

 

イメージの変化

さて、こうした流れの中で、彼は一体何を考えているのか、と疑問に思うことがある。

役者として、チンピラを演じるのは仕事である。

が、実生活ではもういい大人。

マスコミを威嚇するのは、ショーとしての意味もあるかもしれないが、

見ていて情けなく、そのイメージは彼の曲にまで影響を与えた。

きれいな曲。好きだった曲。それらがどんどん私の中で遠くなる。

そして、テレビ番組で板を割る。

武道を愛してる者、修行をしている者は、素人相手に怖がらせたり、

尊敬の目を向けさせるために見世物をしない。

彼は板を割って、「すごいですね」と言われ、ニヤっと満足そうな顔をする。

そんな彼が残念で、私は逆に怒りを覚えてしまった。

 

マスコミや芸能界に躍らされ、曲のイメージを壊す。

尊敬できない人が作った曲は聞きたくもなくなる。

知らなければそれで済む。プライベートを常時引きずっている音楽関係者は、

それは大変な仕事だとは思う。

が、彼の行動はあまりに子供過ぎていて、とても尊敬はできない。

壊れたイメージはなかなか修復できず、

その結果、長渕剛の曲は流れてくれば聞くけれど、

昔のような受け入れ方ができなくなった。

 

それは私だけの、個人的な好き嫌いの問題である。

長渕を崇拝しているひとは沢山いて、それはそれで結構なことである。

あくまで、私の中のイメージはもう昔の長渕ではない。

彼がもっと大人であったり、もう少し賢く立ち回っていたら、こうはならなかった。

たまたま見てしまったからこうなっただけで、

長渕以外のミュージシャンで、イメージを壊す生活をしている人が沢山いるとは思う。

それは仕方がない。

こちらで勝手に作り上げたイメージだから、

それを壊すも何も本人には関係ない、といえばそれまでである。

 

そうは言っても・・・。

世の中に何か訴える仕事をする人すべてに言えることではあるが、

歌や映像を仕事とする人は特に、プライベートでも、その行動を評価され、

それが作品やイメージの評価につながる。

それを考えて行動するべきであり、それが普通の大人である。

敢えてシッポをふる必要はない。媚びを売ることもない。

自然でいいのだが、そこには理屈が必要である。

社会通念、大人としてもモラルが必要である。

 

本当は

強さへの憧れは誰でも持つ。

それに近づこうと、武道を選択することはよくある。

しかし、自分の強さを見せびらかしたりはしない。

強い自分を見せることは、本当は弱いと言っているのと同じ。

自分はこんなことができるから、

下手に近づかないでくれ、怒らせないでくれ、と言っている。

それは肩を怒らせて歩く若者と同じである。

内面の脆弱さを、虚勢で防衛するのは、見ていて情けない。

本当は、そんなに虚勢を張る必要はない。

人の悲しさを詩にして曲にできるナイーブさを持っている彼は、

そのままで良かったのではないか。

 

あとがき

長渕ファンの方には申し訳ない内容である。

それは彼の一面であって、違う面もあるはずだ、マスコミがいけないんだ、と

言われるかもしれない。

そういう意見も確かに正論である。

同じものを見ても、人それぞれに受け取り方が違う。

マスコミに流れる彼の姿に、余計に尊敬の念を抱く人もいるとは思う。

私の意見が偏見だ、というのも当たっているかもしれない。

が、それを承知で掲載することにしました。

 

(15.12.27)

「長渕剛 の漢字をちゃんと書いて欲しい」

というご意見をいただきました。

読み返してみると、確かに長淵と書いてあるところが何箇所かあったので、

訂正しました。ついでに、志穂美を志穂見と書いてあったので、これも訂正しました。

 

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