歴史と日本人
(歴史三択クイズの中での文章です)
はじめに
今年、13年の4月に、
リンクを使って、歴史三択クイズを作りました。
http://isweb24.infoseek.co.jp/diary/yoshi57/rekisi.top.htm
何日も時間をかけて、やっとこ完成しました。
製作に当たっては、中学の歴史の教科書を参考にしました。
作業が進む内に、以前から考えていたことが頭から離れなくなりました。
一つは、「歴史は勝者が作ったもの」、もう一つは「日本人とは何か」です。
歴史は勝者が作ったもの
桃太郎伝説というのがあります。
桃から生まれた桃太郎は、大きくなって鬼が島に鬼退治に行きます。
ここでいう「鬼」とは何か。
古代の日本では、地方の豪族が互いに勢力を伸ばそうとして戦いを繰り返し、
その中で勝者と敗者が生まれます。
勝者は自分たちの行為を正当化するため、自分たちに都合の良いように
戦いの歴史を残そうとします。
桃太郎に登場する鬼とは、
朝廷や支配者に従おうとしなかった集団のことではないか、という話を
何かの本で読んだことがあります。
桃太郎は伝説ですが、歴史でいう日本の成り立ちの過程についても
同じことが言えるのではないか。
戦いの時代では、
自分たち勝者を正当化した歴史を残すのは当然なのかもしれません。
次の世代に引き継ぐときに、自分たちの行為を悪業だという訳にはいきません。
例えば、
主君の織田信長を裏切った明智光秀は不当であり、
明智光秀を倒した豊臣秀吉は正当である、と思われがちですが、
そもそも戦いの時代に人間性を加えて評価することは無理です。
相手を倒さなければ自分が倒される、という時代であれば
明智と豊臣のどちらが正当ということは言えません。
また例えば、
蝦夷地開拓の歴史は、アイヌにしてみれば侵略の歴史です。
開拓とは侵略者の言葉です。
これはアメリカの場合でも同じです。
西部劇は西部開拓の歴史のように描かれますが、
先住民にとっては侵略の歴史です。
立場によって、一つの行為が全く別の受け取られ方をします。
そう考えると、
日本だけに限らず、世界中で「歴史」と言われているものは、
どこまで客観性・正確性があるのかが分からなくなります。
支配する者とされる者という結果は合っているかも知れません。
でもそうなる過程に歪曲がないとは言い切れません。
歴史の正確さを考えるならば、
勝者・支配者のいう歴史だけを残すのではなく、
敗者・被支配者のいう歴史も残すべきではないか。
勝者・支配者のいう歴史だけを見るのではなく、
敗者・被支配者のいう歴史も見るべきではないか。
勝者・支配者(権力者)は歴史を自由に操作できます。
それが良い・悪いは別にして、「偏った見方をさせられていないか」を
いつも自分に問い掛ける必要があるのではないか。
日本人とは何か
「私は日本人だ」という場合、何を根拠にするだろうか。
「日本に住んでいる」
:これは日本人でなくても住めます。
「親や先祖が日本に住んでいた」
:これは何代前までを日本人というのかが分かりません。
「国籍がある」
:これは外国人でも日本国籍を持てます。
「日本語が話せる」
:これは日本人でなくても話せます。
「白人でも黒人でもない」
:これは中国・朝鮮などの人と区別がつきません。
こうして考えてみると、
「日本人」という言葉はなんてあやふやなんだろうと思います。
昔、日本列島は大陸とつながっていて、
大陸の人や動物の行き来があったといいます。
この日本という土地に住み続けているから日本人だとは言えません。
同様に、日本文化とは何だろうかと考えます。
日本人が現在「日本文化」と言っているものは、日本以外の国から輸入されたものを
元にしています。
例えば、漢字は中国から入ってきました。
漢字を元に「ひらがな」「カタカナ」が生まれ、書き言葉の日本語が作られました。
話し言葉も漢字の発音が中国語に似ていたり、
他のアジアの国に似ているものがあると言います。
輸入したものを加工した先人の努力を軽視するつもりはありません。
独自の文化を持たない日本人が世界に向けて胸を張る時、
今ある日本の姿は諸外国の手本の上に成り立っている、
という敬意が必要なのではないか。
今回、クイズ製作の参考に歴史の教科書を読んでみて、
こんなことを考えました。
読んで頂いてありがとうございました。
13.4.5 筆者