働くこと

 

仕事の色々

世の中には色々な職業がある。

例えば、朝起きて歯ブラシを手にする。

この歯ブラシ、

私は今、何気なく手にしてるけれど、私の手元に届くまでに、

一体どれだけの人が関わっているんだろう。

 

まず、歯ブラシのデザインを考える人がいる。それから、

出来上がりをどうやって販売するかを考える人、

工場に生産を依頼する人、

工場で生産する人、

出来上がりの歯ブラシを工場から店に運ぶ人、

店の棚に並べる人、

レジを打つ人、

この他にもたくさんの人が、1本の歯ブラシに関わって仕事をしている。

こうやって考えてみると、

世の中にある職業の数、種類は大変な数だとあらためて思う。

物だけでなく、サービス業もあるからそれはもう数え切れない。

 

さて、世の中には必要のない仕事ってあるだろうか。

その仕事自体が社会にとって悪、害になるという仕事も中にはある。

だけれど、大部分は社会にとっては必要なもの。

ほとんどの人は仕事をして、給料を得て、それで生活をしている。

働かない人も中にはいるけれど、それはさておき。

生活をするにはお金が必要不可欠。では、働ければなんでもいいか、というと

これがそうはいかない。それぞれ、人には、向き、不向きがある。

いくら高い給料をくれても、働くこと自体がおもしろくなければ続かない。

働くことが辛くても、それが自分の中で満足感を感じられる仕事なら、

辛さに耐えられるのかもしれない。

 

現代では職業につく、というのが当たり前である。

しかし、時代をさかのぼり、もっともっとずっと昔、

人間が働くことをはじめたころはどうだったんだろう。

 

労働の始まり

原始時代、人間は狩や木の実の採集をして食料を得ていた。

社会の最小単位は家族であり、男は単独で獲物を仕留める。

女は子供を育て、家庭を守る。

それが、やがて集団で協力しながらより多くの獲物を得る形になって、

そこに家族より大きな社会が生まれ、役割分担ができた。

集団のなかで役割を分担することで仕事の効率が上がり、

より豊かな生活ができるようになった。

 

男は家族のために危険をおかして獲物を仕留め、

女は男や子供のために食事を作り、住みかを守る。

集団のために働いていても、

結局は誰のために働くか、という対象がはっきりと見えていた。

自分が働かなければ家族は生きていけないのである。

狩猟採集の時代から農耕の時代になり、社会の形も変わって

働くものと働かせるもの、使われるものと使うもの、という階級が生まれ、

その後社会は複雑に発展していく。

 

さて、労働の基本は変わってしまったんだろうか。

農作業をして出来上がった食料を、すべて自分のものに出来なくても、

家族のために食料を得ることができる、というのはかわらない。

自分たち家族が生きていくために、労働は必要な手段であった。

これは現代でも同じである。

 

労働の報酬、その基本

働いて得るものがお金であるが、なにもそれだけとは限っていない。

例えば、恋人に料理を作る。

彼女は材料をそろえ、時間をかけて、作り上げる。

そして、出来上がりを彼氏に食べてもらい、おいしかったと言われて彼女は満足する。

そこにお金は必要ない。彼女の料理を作るという労働の報酬は、

彼氏の「おいしかった」という一言で十分に満たされる。

これは何なのか。

 

彼氏においしいものを食べさせたい。おいしかったと言ってもらたい。

彼女にとって、料理を作るという労働は、そのための手段である。

彼氏のための労働だったのである。

つまり、「彼氏に満足してもらう」という目的があり、それによって自分も満足する。

そのための手段が労働であった。

 

この誰々のため、という考え方が、労働の基本である。

自分のため、というより、自分以外の誰かのために、自分が役に立っている。

この満足感が労働を継続させる。

 

しかし現代社会の中では、こうした個人的な料理だけでは生活は出来ない。

報酬を得ていかなければ生きて行けないので、

この誰々のため、という基本がぼやけて、

お金のための労働、という受け取り方になりやすい。

ここが肝心なところである。

前述のように、お金をくれれば何でもいいか、というとそうではない。

労働によって満足感が得られなければ続かない。

その仕事をしたことで、自分は社会のために役に立っている、という満足感。

それが不可欠である。

 

料理を例に話を進めると、

例えば食堂を経営する。

お客さんにおいしい料理を食べてもらいたい。

できるだけ安く栄養のあるものを食べてもらいたい。

そのために、安全で新鮮な材料を色々用意し、一生懸命に料理をする。

自分が生活していかなければならないので、料理の代金はもらう。

しかし、代金が目的で料理を作るのではない。

お客さんに、「ご馳走様、うまかった〜」といわれたら、

その一言で、自分の労働が報われる、満足できるのである。

そのための手段が料理作りであり、

明日への準備に必要なものをそろえる為の代金を受け取る。

これが労働の基本である。

 

大量生産、大量消費で、生産者と消費者の距離が遠くなりがちであるが、

野菜を作っている農家でも、家畜を育てている農家でも、

基本は同じだと思う。

サービス業でもそうである。

旅行代理店でお客さんの相談に乗り、満足行くようなプランを考える。

たくさんのお客の中で、一人でも、「お陰でいい旅行ができました」と言ってくれると、

その一言で自分の労働が報われる。明日への意欲が湧いてくる。

こうした満足感が得られないと、仕事をしていておもしろくない。

 

しかし、複雑な現代の中で、

自分の仕事に満足感を感じて働くことは難しいのかもしれない。

フリーターが増え、失業率が低下しないのは、

それだけ、満足を得られる仕事が少ないのかもしれない。

 

石の上にも3年

ことわざである。辛抱が美徳と昔は言われていた。現代では社会変化が激しく、

辛抱することは、必ずしもいいことだとは言えないのかもしれない。

正式であれ、アルバイトであれ、就職すると、初めは戸惑いの連続。

仕事の基本から教えてもらい、人に聞かなくても動けるようになるまで、

しばらく時間がかかる。そして1週間、一ヶ月と経ち、段々に慣れてくる。

3ヶ月もすると、全体の様子が大体見えてくる。今後の見通しもわかってくる。

そこでふと気付く。一体自分は何をやっているのか。

このままこの仕事をしていていいのか。この先、一体何が期待されるのか。

そして、他の仕事を見ると、魅力的に見える。

隣の芝生はあおい、と分かっていても、魅力的である。

さて、自分はどうするべきか。

 

迷いの時期

この節目が1ヶ月か、3ヶ月か、1年か、2年か、3年か、それは人それぞれである。

仕事に対する迷いは誰にでもある。

大事なのは、長さでなく、質である。

人生とおなじで、振り返ったときに、どれだけ自分が満足できるか。

後悔はしたくない。一生懸命自分は頑張った、と自分を褒めることができるなら、

それはそれでいいと思う。

人にはそれぞれ、向き不向きがある。

無理をしてこの仕事を続けるより、自分にもっと適した他の仕事に移る方が、

自分をもっと生かせる、満足できる、という場合には、そうするべきである。

 

生活のため

生活のために、嫌な仕事を続けなければならない。そういう場合も珍しくない。

自分には他にもっと自分に合った仕事があるけれど、

生活のためには、簡単に転職するわけにはいかない。

そういう場合は、生活のために断念したことを認めるべきである。

そう選択したのは自分である。

本当は違う仕事をしたかった、というのはわかるが、

だからといって、目の前の仕事をいい加減にしていい、という理屈はない。

いやいやであっても、その仕事を選択したのならば、

それなりに向き合うべきである。

 

選択のために

視野を広げるには色々なものを見て、聞いて、体験する必要がある。

自分にはどんな仕事が適しているか。

それを見極めるには、沢山の情報と時間が必要である。

そして、希望する仕事が見つかったとしたら、

その仕事につくためには何が必要かを考える。

やる気だけでいいのか、他に知識や技術が必要なのか。

仕事を選ぶときに、より沢山の仕事を選択できる方が楽である。

 

応募資格

例えば、「高卒以上」というならば、現在、高卒でいた方がいい。

「要普免」というならば、現在、車の運転免許を持っていたほうがいい。

これから高校に通って「高卒」の資格をとる、というのは大変である。

これから教習所に通って運転免許をとる、というのは大変である。

すべては、あらかじめ用意しておいたほうがいい。

学歴や資格はあっても邪魔にはならない。

持っていて、それを活用できるように準備しておくことは大事である。

それは大学も同じ。

大学進学の目的があやふやであっても、行けるならいっておくべきである。

就職希望をしたときに、大卒の資格が必要だ、と気がついても遅い。

 

仕事の選択

転職であれ、就職であれ、希望する仕事が見つかったら、準備が必要である。

そして実際に体験して、理想と現実を知り、また悩むという場合もある。

しかし、辛抱が足りない、と自分を責める必要はない。

考えてみれば、人生80年の時代である。

10代で、或いは20代前半で、

その後の60〜70年の人生を決定するのは、そもそも無理である。

就職してから、思っていた仕事と違っていた、ということも確かにある。

それを失敗だった、という必要はない。

やってみなければわからない。やらずに口だけであれこれと言うのは簡単である。

問題は実際に体験してみてどうか、である。

 

仕事の中身か、人間関係か

やりたい仕事で、職場環境がよければいうことはない。

満足して仕事に向かえる。それが理想である。

しかし、現実にはなかなかそうはいかない。

仕事に魅力は感じても、一緒に働く同僚や上司との関係が大きく影響してくる。

辛くても、同僚との横のつながりがあれば耐えられる、という場合がある。

横のつながりもなく、縦の、上司との関係もうまくいかない。

そういう場合は不幸である。

仕事で悩むのは給料の一部。それは苦ではない。

人間関係で悩むのは、不満の持って行き場がない。

そんなことで悩みたくはない。だれもがそう思う。

しかし、これはよくある話である。

自分が問題の種をまくこともある。

一緒に頑張ろう、という姿勢が自分になければ、他の人にも伝わらない。

この辺のことは、わかってはいてもなかなか難しい。

やってみるしかない、というのが現実である。

 

あとがき

仕事について、就職・転職を中心にまとめてみました。

偉そうなことを言っても、ここに書いたことは全て自分に返ってくる。

お前はどうなのか? これである。

そして私は答える。「なるようにしかならない」

受け取り方は様々だけど、

このページを見て、少しでも気持ちが楽になった、という方がいたら幸いです。

 

平成14年9月18日

ホームページのtopへ