働くこと 2

 

はじめに

「はたらくこと」では、就職・転職についてまとめてみました。

その続編として、「働くこと2」では、

仕事のやりがい、仕事への姿勢についてまとめてみました。

少し堅苦しい内容になりました。

 

家族の仕事

母親が子供の面倒を見る。

父親が子供の面倒を見る。

これは他人が代わってできるだろうか。

妻が夫のために料理を作り、掃除洗濯をする。

夫が妻のために働き、給料を持ち帰る。

これは他人が代わってできるだろうか。

 

答えは仕事としてはイエスであり、また、存在としてはノーである。

 

赤ん坊のオムツを取り替える作業。これは、他人でもできる。

乳児院で、病院で、施設で、保育所で、それぞれの職業の人がオムツ交換をしている。

作業自体は他人でもできる。では、赤ん坊にとってはどうだろう。

母親の作業の代わりはできるけれど、母親としての存在を考える時、

赤ん坊にとって、他人はあくまで母親の代理である。

血のつながった母親は唯一の存在である。

長い時間赤ん坊と生活している母親は、泣き声だけで赤ん坊の欲求を察知する。

これはただ甘えてるだけ、これは何か嫌なことがあった時、これは熱があるとき、と、

経験と愛情で母親は赤ん坊を見守り、育てる。

時間の制限がなく、24時間赤ん坊を受け入れるのが母親である。

 

もちろん、血のつながりがなくても母親父親にはなれる。

養子を迎え、他人の子供を自分の子供として育てることは珍しくない。

血のつながりはなくても愛情は同じであり、親としての存在は絶対的な関係である。

24時間切れることがない関係である。一生を通じて、また死後もその関係は続く。

 

家族の関係は、職業や社会的背景に関係なく、お金に関係なく、

愛情を中心にして成り立っている。

その家族の代理を職業としてするとき、それはあくまで代理である。

決してそれが劣っているとか、評価を低くみるべきだ、と言っているのではない。

職業として、それらの仕事をするとき、

社会的な背景や報酬としてのお金を抜きには成り立たない。

それが職業だからである。

 

夫婦

妻が夫のために料理を作り、掃除洗濯をする。

これを他人に代わってしてもらうには、

家政婦の派遣を頼めば料理・掃除・洗濯はしてくれる。しかし、有料である。

妻への報酬が無料だ、というのは表面上である。

お互いの関係上、お金のやりとりの必要ない労働を妻はしている。

妻があっての夫である。夫の持ち帰る給料は、妻の労働に支えられている。

夫も妻も、お互いに使命感をもってそれぞれの仕事、労働をこなしている。

相手の満足感が自分の満足感。そうした信頼関係の結果である。

離婚訴訟などでは、社会制度上、夫婦の行動に義務と権利や制約が生まれるが、

現実には、単に相手のために、

妻のために夫は労働し、夫のために妻は労働している。

労働自体は変わりができるが、唯一の存在同士という関係は、代理にはできない。

 

仕事のやりがい

職人と大量生産

昔は職人と呼ばれる人がたくさんいた。

この仕事をしたのはこの人だ、とみんながわかる。そんな職人がいた。

他の人では代わりができないのである。

製品が手作りであった時代、長年の経験と勘が必要とされ、だからこそ、貴重品とされた。

衣服、装飾品、料理、家具、家。その他あらゆる場面で職人が活躍していた。

 

例えば靴を作る。手作りで1足作るには何日もかかかる。

その何日かの間、靴職人は生活しているのだから、

材料費の他に、食事代、光熱費、住居費、

と、様々なお金が必要である。これらを含めて靴職人の労働報酬となる。

従って、出来上がった靴の値段は高くなる。

 

産業革命で工業化が進み、熟練した技術がなくても、

同じ製品を大量に生産することができるようになった。

労働者は歯車のひとつとして、流れ作業の中の一部分を担当し、

結果として製品ができあがる。

ここでは、各場面しか担当していないので、

全体としての製品作りのイメージが希薄になりがちである。

自分は何を作っているのかがぼやけてくる。誰がやっても結果は同じ労働になってしまう。

それが工業化の目的ではあるけれど、自分がいなくても製品ができあがるのだから、

労働者としての自分の存在価値があいまいになりやすい。

 

大量生産によって品物の値段が下がり、職人の生活が成り立たなくなっていく。

それでも職人は、自分の仕事に誇りを持ち、精魂込めて製品を作る。

そしてまた、、希少価値という点では、職人の手作りの製品にはかなわない。

また、高くても品物の質、品質で職人の製品を選ぶ消費者もいる。

 

では、大量生産の労働者は仕事に生きがいを見つけられないのか?というと、

実はそうではない。確かに製品を比べたら職人の物とは違う。

個人の意気込みが製品には反映されていないかもしれない。

しかし、全体で製品を作ること自体を生きがいにできる。

良い品物を安く消費者に届ける。そのために自分が役に立っている。

他の人で自分の代わりはできるかもしれない。

でも、その部署にとって、自分は必要とされている。

そういう自覚がもてるならば、歯車の一部ではあっても仕事に生きがいを持てる。

 

販売業

物を生産する仕事以外を考えてみる。

販売ではどうだろうか。

例えばコンビニ店で働く場合。仕事は大まかにいうと品物を揃え、清算する。

単純に見える仕事だが、お客の満足を考えるとなかなか大変な仕事である。

倉庫から品物を補充する。

売れ行きを考えて倉庫の保管量を把握しなければならない。

売れる商品、消費者の求める商品を把握しなければならない。

お客が沢山きてレジに並ぶ。お客の待ち時間を少しでも短くするために、

店員の誰もがレジを担当できなければならない。

レジではお金をやり取りするだけではない。

おでんを容器に入れ、弁当をレンジで温め、宅急便を扱い、公共料金を扱う。

他にもそのコンビニ独自のサービス内容がある。

誰もが同じ仕事をできなくてはならない。

誰かが休んだらその代わりをできるようにしておく。

自分もいつ体調を崩して休むかも知れない。そういう時はお互い様である。

支えあわなければ、協力しあわなければできない。

 

お客の満足とは別に、店員同士の関係でいえば、

この仕事を任せたら、あの人ならしっかりやってくれる。安心して任せられる。

そういう評価をもらえたら、一層しっかりやろう、と思う。

自分の存在価値を認められるのは、やりがいにつながる。

見た目は同じ仕事をしていても、実は一人一人にとって、

また、周囲にとっては、大きな違いがある。

問題は、その人個人の仕事への姿勢である。

 

教師

教育者の場合はどうか。

学校は勉強を教える場である。

では、勉強さえ教えられれば先生か? というとそうではない。

教科の学習内容では、その指導方法に大した違いはないかもしれない。

教科書どおりに進め、試験を受けさせ、点数を取らせる。

ただ、それだけだろうか。

 

生徒が勉強に向かえるように配慮ができなければならない。

理解力は生徒一人一人で違う。全体のレベルで話を進めるだけでは、

それから漏れてしまう生徒が出てくる。

できない生徒ができるように教える、それが先生である。

できる生徒は、あらたまって教えなくてもできるのだから。

 

また、学校は教科だけを一方的に教える場ではない。

生徒の勉強場面以外でも配慮が必要である。

思春期、青年期では様々な悩みが生じる。勉強も手につかないくらいに、

本人にとっては大きな問題となる場合がある。

そうした時、話しやすい先生が必要とされる。

この先生なら話を聞いてくれそうだ、と、生徒が思える。そんな先生が必要である。

こうしてはいけません、と生徒を管理することも必要だけれど、

大事な場面では耳を傾けることができる、そうした先生でなければならない。

しかし現実には大変である。

社会が複雑になり、家庭の事情も複雑になり、

抱える問題が簡単には解決できないことが多い。

生徒のために、教育のために、自分はできる限りの努力をしている、と

自認できる先生は数少ないのかもしれない。

サラリーマン教師が増え、必要なこと以外はやらない。

受験に関係ないことには口を出さない。

そうした先生が多いかもしれない。

そんな中で、理想とする先生像を追い求めている人も確かに存在する。

教師が事件を起こして問題にされることも多い。

うつ病や精神的な問題を抱えている教師も多いという。

まじめな教師はもろく壊れやすいのかもしれない。

生徒の立場を考え、自分も安定して教師としての仕事を続けることは、

実は大変なことのようである。

だからこそ、逆にやりがいのある仕事だ、といえる。

理想とは離れていても、理想に少しでも近づけることができたら、満足感を得られる。

今度はもう少し理想に近づこう、という向上心を持てる。

人それぞれにペースがあり、

ベテランと新米ではできることに違いがあって当たり前である。

自分にできる範囲で、無理のない範囲で、自分なりの努力ができれば、

それがベストではないか?

 

サトー無線の緑川さん

店名や個人名を挙げて申し訳ないけれど、

私の利用している電気屋さん、サトー無線に緑川さんという店員さんがいる。

私がはじめてPCを買った時からお世話になっているが、彼はプロである。

全くの初心者の私に、PCの言葉一つ一つから説明し、

初心者にとって適した機種は何か、とアドバイスをしてくれた。

それからの付き合いであるが、仕事に忠実である。

最初に買ったデスクトップPCとプリンター、スキャナー、に慣れてきて、

2代目のノートPCを買うときも、各機種の特徴、使いやすさ、サポート内容、

その他関連するあらゆることを教えてくれる。

その後、当然のことではあるが、

デジカメ、デジタルビデオ、も彼のアドバイスで買ったのである。

 

関連する事柄に精通しているのは、当たり前といえば当たり前である。

それがプロである。しかし、知識だけではない。

高い商品を無理に勧めないのである。今の私の状況に適した商品を紹介する。

 

例えば、デジカメの場合、2日後の旅行に持っていく。

値段と手軽さとある程度のズーム、操作の簡単さ、

そして操作に慣れるためにすぐに持ち帰れる品物。

 

そうしたこちらの条件にあった品物をすぐにピックアップする。

各機種の操作は勿論、付属品の解説、必要最低限の予備の品物など、

その場ですぐに解説してくれる。

利益は勿論大事だが、お客の要求に応える販売姿勢。

これが言葉には出さなくても伝わってくる。

出会った最初からこの姿勢は変わらない。

だから私は彼を信頼している。PC売り場が担当らしいけれど、

近くのデジタルビデオを買うときにも彼にお願いしたのである。

 

取替えができるかどうか

家族や恋人関係では、作業は取替えがきいて、他の人で代理が出来る。

しかし、その存在そのものにはなれない。代理はあくまで代理である。

職人の仕事では、取替えがきかない。

 

さて、ここで考えてみる。

電気屋の販売員は商品を説明して販売する。

だからその売り場の担当者であればその役目は果たせる。

しかし、私は緑川さんを呼んでもらう。他の人ではだめである。

取替えがきかないのである。

彼のいうことなら信頼できる。知らないことははっきり知らないと答える。

誠実さがあり、こちらの要求に適した商品を選択し、説明し、

いつでも可能な限り話を聞いてくれる。

表面上は同じ店員。他の人が劣っている訳ではない。

さぼっている訳ではない。それなのに取替えがきかない存在。

普段からの仕事に対する姿勢が、その後の関係を決めてしまう。

そういう意味では厳しい現場である。

しかしまた、仕事とはそういうものだと思う。

この人なら大丈夫。この人なら何とかしてくれる。この人なら話を聞いてくれる。

そうした唯一の存在に自分がなれたら、それが仕事のやりがいになる。

勿論、その反面では責任がある。仕事に関する新しい予備知識が必要であり、

普段から備えていなければならない。

 

唯一の存在

人それぞれが、唯一の存在である。

生活しているあらゆる場面で、その人なりの生き方をしている。

仕事の場面では、存在自体は唯一の存在となれる。

しかし、仕事の内容では、なかなか唯一の存在にはなれない。

これには努力が必要である。仕事に対する姿勢は人それぞれで違う。

努力の内容も違う。評価は他の人がする。

人の評価は、これもまた人それぞれだから、

同じ物を見ても、同じように受け取るとは限らない。

人に評価されることを期待すると、疲れる。

絶えず人の目を気にしておどおどしていなければならない。

まず、自分で自分を評価する。

ここまでできればまずまずOK。そういうラインを低く設定する。

高望みは疲れる。

 

あとがき

仕事への姿勢は、自分次第で変わってしまう。

いろんな職業がある中で、せっかく縁があって働くことができた。

その機会を大事にできたら・・・。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 

H14,10.21

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