正義

 

テレビのヒーロー

14.6.15 ウルトラマンコスモスが放送中止になった。

主演男優が2年前に、未成年で傷害事件を起こしていたからだ、という。

正義のヒーローが、事件を起こした被告、ではまずいのだろう。

詳しくは分からない。ただ、マスコミや放送業界は、マイナスイメージを嫌う。

 

正義の基準

ウルトラマンは、宇宙からの怪獣を叩きのめし、破壊して地球を守る、というストーリー。

地球の、人間の基準で計って、怪獣は正義の仇敵。

登場すると攻撃される。平和を守るためには、怪獣は痛めつけられ、排除される。

では、怪獣にとっての正義とは・・・。人間が怪獣の平和を脅かしていたら、

怪獣が人間を攻撃するのは、怪獣にとって正義である。

 

正義とは、絶対的なものではなく、相対的なものである。

立場によって、正義の内容は変わる。場合によっては、まったく逆の正義が存在する。

 

開拓という侵略行為

北海道開拓。

江戸時代の松前藩の頃から北海道に本州から人が移住。

明治政府は、北海道のアイヌを追いやり、その文化を封じてしまった。

生活様式は民族の伝統であり、文化である。

例えば、明治政府はアイヌの刺青を禁止した。

アイヌ語も禁止。生活様式も本州方式。

本州人にとっての利益のために、本州の考えを彼等アイヌに押し付けたのである。

本州人が北海道を征服した行為は、アイヌにしてみれば侵略であり、不当である。

侵略者本州人と戦うのはアイヌにとっての正義である。

インディアンと騎兵隊、も同じ。

 

※これはあくまで、歴史的な話しです。

今現在、北海道に住んでいる人たちに対して、

侵略者だ、というつもりは毛頭ありません。

歴史を更にさかのぼれば、

北海道、いや日本列島に移住してきた民族は多種多様です。

 

銃規制

正義の国アメリカには、

23,000,000丁の銃が市場に出回っているという。

国民の一人に1丁だと。

アメリカでは、自分の身は自分で守る、というルールがある。

アメリカ大陸を侵略した側だから、原住民の攻撃にいつさらされてもおかしくない。

多民族国家だから、誰が襲ってくるか分からない。

広い大地、豊富な資源。映画やテレビで映されるアメリカの住宅は、

広い庭に大きな家。それを守るためには、銃は欠かせない。

やられる前にやる。相手が内ポケットに手を入れたら、こちらが先に撃つ。

そうでなければ身を守れない。相手が誰であろうと、身を守るルールは共通である。

おもちゃの銃を玄関で見せたら、警官に撃たれて死亡した日本人留学生がいた。

日本では考えられないが、これがアメリカの現実である。

銃による事件事故が多発するアメリカでは、その度に銃の規制が話し合われる。

しかし、規正法は成立しない。業者が猛反対をしていつも流れる。

これはアメリカ社会の矛盾点である。

自由の国アメリカ。自由のためには自分を守る。そのためには人も傷つける。

その傷つけられた人の自由は・・・。傷つけられた人の正義は・・・。

 

不仲な国・民族

朝鮮と韓国、インドとパキスタン、テロ集団とアメリカ、イスラエルとパレスチナ・・・・・。

それぞれの立場で、それぞれの正義があり、

そのために、時には相手の命を奪い、時には自分の命を失う。

現代の私たちにはわからない自爆テロ。しかし、過去の日本も同じだった。

 

時代が変われば考え方も変わる。

つい57年前の日本は、天皇を神とし、アジア各国を支配し、

鬼畜米英を合言葉に、戦争をしていた。

男の子の将来の夢は軍人。

日本を守るために命を捨てるのは当然のことだ、と教育されていた。

戦争行為に反対を唱えるものは非国民と呼ばれ、

そうした考え方は危険思想と呼ばれ、矯正させられた。

当時の日本人の正義は、支配・搾取された中国人には侵略行為であり、

抗日運動は、中国人やその他の国の人にとっての正義であった。

 

相反する立場には、それぞれに理屈があり、

疑うこともなく、正しいことだと信じ込む。

お互いを尊重することができないまま、

正義の名の元に暴力行為が始まり、やがて戦争へと発展する。

 

法律は必ずしも正義なのか

法律を執行するために、警察が介入することがある。

成田空港建設当初、建設反対派と警察機動隊との戦いがあった。

学生運動が盛んだった時代、東大安田講堂を占拠した学生と、

それを排除しようとする警察機動隊との戦いがあった。

最近の話題では、東京日の出町のゴミ処分場問題で、

警察の監視下で東京都の強制代執行が行われた。

 

法律は個人の利益のためにも機能するが、全体の利益のためをも優先し、

相反する利益のためには、どちらか一方のための味方になる。

 

法の執行の代理人

警察は法の執行の代理人である。

法治国家の秩序維持には、警察が権力を行使する。

その警察の行為は、立場によっては、必ずしも正義ではない。

法に照らし合わせたら合法だが、住民や個人にとっては悪の手先だ、

という場合がある。

 

原発推進は正義なのか

電力消費の伸びは右肩上がりのグラフを続け、

地球に埋蔵されている化石燃料(石炭・石油・天然ガスなど)は、

数十年後には枯渇する。

今の生活水準を維持し、人口増加に対応するためには、

原子力発電しか解決策はない、という。

安全性の問題を解決しないまま、必要性だけで原発を推進する。

そんなに必要な原発なら、

推進派の政治家や電力会社の経営者が住んでいる地域に

原子炉を作ればいいのに、そうはしない。都心から離れた地域に作る。

クリーンなエネルギー=原発。安全な原発。

どうせなら、都内、国会議事堂や議員会館の隣にでも原子炉を作ればいい。

原発施設を建設する地元住民の生活を犠牲にして、

社会全体の利益が優先される。それが正義なのかどうか。

 

公共工事と地元の利益

例えばダムを作る。

税金でダムを作るのだから、膨大なお金が動く。

ダムの犠牲を引き受けた地方の自治体には、国から援助金が出て、財政が潤う。

その恩恵を地元の住民が本当に享受できているのだろうか。

必要なダムだ、といわれたのは何十年も前。現在の考え方では大して必要でもない。

それでもダムは作られ、自然が壊され、住民が土地を追われる。

 

長良川河口堰、諫早湾干拓工事・水門建設なども同じである。

公共工事と地元の利益。

そこには利権が生じ、一部の政治家や業者が潤い、住民が犠牲になる。

 

そこに住んでいる住民の利益

そこで生活している住民の利益が脅かされようと、

法律で決済となったものは実行される。

反対運動をして訴訟を起こしても、裁判が結審すれば、

勝訴した方の主張が法の認めた正義となる。

法の執行を邪魔すれば、法に違反した行為となり、処罰の対象になる。

つまり、立場によって、法は正義にもなり、悪にもなる。

 

沖縄の米軍基地は正義なのか

アジア極東の平和と安定のために、沖縄の米軍基地は不可欠である、と言われ、

沖縄住民の静かで安全な生活は無視される。

沖縄県民とアメリカとの直接交渉で、基地の存続が話し合われたのではない。

沖縄には関係ない、本土の静かな所に生活している政治家が、

アメリカと地位協定を結び、基地の存続を認めたのである。

沖縄の本土復帰を祝い事だと子供に教えた当時の社会。

その実体が、

米軍基地をそのままの状態での本土並みの復帰だった。

それでいい、とした政治家は、

本土の利益にはなっても、現地沖縄には何の利益もないことを

知っていたはずである。

もし、沖縄が独立国で、軍隊を持っていたとしたら、

あれほどの広範囲の土地を米軍に提供するだろうか。

本土に隷属する沖縄だからこその、米軍基地である。

 

疑うべきは

疑ってかかるべきは、正義の中味なのか、

正義を唱える個人や団体の考え方なのか。

何が正しくて、何が間違っているのかが見え難い現代である。

正義とは相対的なものであり、一部の個人の利益のために、

全体が洗脳される危険がある。

立場を変えて実はどういうことなのか、を検証する必要がありはしないか。

 

あとがき

政治的な内容にするつもりはなかったけれど、こうなってしまいました。

政治思想的背景はありません。ただ、思いつくままに羅列しただけです。

きっかけはウルトラマンコスモスの中止でした。

 

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