葬式
(人が亡くなるということ)
はじめに
振り返ると、色々な葬式に参加した。
老衰で亡くなるのは仕方がない。大往生というのはめでたいことらしい。
しかし、年寄りなら遺族は諦められるか、というとそうでもない。
年をとっても「まだ早い」「もう少し長生きして欲しかった」というのが通常ではないか。
若い人の葬式の場合は尚辛い。
「まだまだ可能性のある人生があった筈なのに・・・」という悔いを残す。
人は死ぬために生きている。いつかはみんな死んでしまう。
偉い人も、金持ちも、凡人も、貧乏人も、死の前では同じ。
ただ、最後の瞬間が少し後にくるかどうかの違いはあるようだ。
私は仏教徒ではない。しかし、葬式にはお経を聞き、焼香する。
お経を聞いても、意味は分からない。それでも亡くなった人のため、遺族のために、
葬式に参加する。葬式に参加するたびに、不思議だと思うことがいくつかある。
お経
何のためにお経を唱えるのか。
亡くなった人の成仏を願うのか。残った人に対して、生き方を説くのか。
お経がないと、人は成仏しないのか。成仏とは何か。お経とはそもそも何か。
と、色々考える。
死は動かしがたい現実であり、亡くなった人にとっては、
現世の出来事はもう感知できないことではないのか。
お経を唱えられても、唱えられなくても、死んだ後には変りはないんじゃないか。
まして、「お経の長さで坊さんへの礼金の値段が決まる」というのが現代である。
私が死んだら、
「お経はいらん。その分、残った人たちでうまいものを食ってくれ」
と、思うかもしれない。
死んでから死んだ人のためにお金を使うのはおかしい。
それなら、生きているうちに使うべきだ。
「あの世千日、この世一日」という諺がある。
死後の千日の供養より、この世の一日の方がずっと大事。
お経は何語か
仏教は、昔インドで、バラモン教の教えに疑問を持った釈迦が苦行の末に
悟りを開いて起こしたものだという。
インド人の釈迦がお経を考えたのかどうかは分からない。
弟子に対して、釈迦が「お前たちはこう生きるべきだ」と説いた話の内容を、
弟子が記録したものかもしれない。
この辺のことは私にはよくわからない。
とにかく、仏教はインドから中国、中国から日本へと伝わってきたのだが、
お経は元々はインドの言葉であった筈。それが中国の言葉になり、日本語になった。
つまり、インドの言葉の音を漢字で表したもの、
それが現在の日本のお経なのではないか。
(宗派によってお経の内容は変わりがあるらしいが)
亡くなった人はインドの言葉が分かるんだろうか。死後の世界は分からないから、
何とも言えない。とりあえず、今の私はお経の意味が分からない。
このままの状態なら、死後にお経を唱えられても、意味が分からないままである。
葬り方のいろいろ
死者を葬るのは生き残った者の義務であるという。
社会や習慣によってその内容は様々だが、
共通しているのは、無事にあの世へ旅立ってくれ、という思いだと思う。
土葬
記憶に残る1番古い葬式は、昭和40年代、私が小学生の時のもの。
母方祖母の葬式は土葬だった。
自宅で葬式を行い、終るとリヤカーに乗せた棺を先頭に、
参加者が行列を作ってついていく。
墓場へつくと穴が掘ってある。棺にロープをかけて穴の中に入れ、遺族が土をかける。
棺を埋めた後、何十日かして遺体が分解され、骨だけになってから掘り起こし、
先祖代々の墓石の下に入れるのだという。
火葬
文字通り、遺体を焼いて骨だけにする。
人口が増え、墓地の敷地面積が狭くなると、土葬では賄い切れなくなる。
遺体の取り扱いを簡単するには、骨だけにすれば良い。
骨だけなら、保存スペースは少なくて済む。遺体は腐敗が進み、いずれ分解される。
素早く、清潔に処理するには火葬が適している。
しかし、遺族にしてみるとむごい光景ではある。
最近はダイオキシンの問題があり、入れ歯やメガネ、指輪、などの不燃物は
棺には入れず、焼きあがった骨とともに骨壷に入れる。
その他
鳥葬
山に遺体を置いて、鳥に肉を食べさせて骨だけにする。
山岳民族に多い風習だという。
風葬
火葬にした骨を粉にして、空中に撒く。撒く場所は山であったり、海であったり、
本人の気に入った場所に撒くという。
葬儀の場所
自宅葬
昔は葬儀というと自宅で行うのが一般的だった。
近所の人が協力して葬儀を行う。
隣組という組織がある。
隣組はお互い様の互助組織である。
誰かの家で葬儀があると、手順が決められている。
男は会場準備をする。
座敷に祭壇を飾るために家具を動かし、鯨幕を張り、受け付けを用意する。
女は会葬者の食事や酒の用意をする。
葬儀社は依頼された装飾をして式の進行をする。
会場葬儀
家を会場にすると、費用が安くて済む。
しかし、準備や片付け、隣組への礼金など、いろいろ面倒なことが多い。
全てを葬儀社に任せ、会場を借りてしまうと高くなる。
が、支払いだけをすれば、後の面倒な仕事は全て任せられる。
最近では、自宅より会場を借りて、葬儀社に任せる方が多いようである。
儀式
自宅の布団に寝かせた遺体を納棺する前に、葬儀社の人が色々作業をする。
儀式の内容は様々なものが選べるが、早い話が、
葬儀社に支払うお金の値段によって、その内容が変ってくる。
例えば、
遺体をシャワーで洗う。最後の入浴、湯灌(ゆかん)である。
移動式の浴槽を運び入れ、遺族は準備ができるまで部屋を出ている。
準備ができて呼ばれると、遺体は浴槽の中でタオルをかけられている。
係の女の人が遺族の見ている前でタオルをかけて洗う。
洗髪をどなたかやりませんか、と言われ、面倒を見ていた妻や娘がやる。
シャワーを終えると遺族は一度部屋をでる。
次に呼ばれると、遺体は白い着物を着て布団に寝かされている。
どなたか手伝ってくれ、と言われ、髪を整え、爪を切る。
帯を結び、足袋を履かせ、両手を組む。
顏に化粧をして、女の人は口紅を塗る。
旅仕度の手甲を手に、脚はんを足につける。
納棺
遺族、親族の男性が手伝うこともあるが、葬儀社の人がやることもある。
わらじ、杖、紙の六文銭と財布、その他を棺の中に入れる。
三途の川を渡って、あの世へ旅立つ。六文銭はその船賃だという。
四十九日かけてあの世へ着く。だから、それまでは仏ではない。
通夜から四十九日までは、香典袋には「ご霊前」、
四十九日を過ぎたら「ご仏前」と書くそうである。
魔除け
遺体や棺の上に刃物を置く。
魔除けだという。これは本物の刃物ではなく、模造品を使う。
妊娠中の人は、死者の前では腹に鏡を入れて魔除けにするそうである。
お清めの塩
以前は、葬式から帰宅すると玄関で塩を身体に撒き、清めてから家に入った。
葬儀社が遺族に渡すマニュアルには葬儀一式に関した解説が書いてある。
その中に、
「最近では、葬式は不浄なものではない、という考え方もあり、
塩を撒いて清める必要がない」と解説している部分もある。
霊柩車
派手な霊柩車を見かけることがある。
亡くなった人には何の意味もない霊柩車の装飾。
遺族の見栄か、安心のためか、霊柩車も装飾の派手さで値段が違う。
ある町の住宅街で、
葬儀会場の建設反対の運動が起こり、結局は建設されて営業が始まった。
道には反対のポスターがまだ貼られていたが、その中に
「○○社の建設反対」
「霊柩車は不吉で迷惑」というような内容が書かれていた。
反対をしている人もいつかは死ぬ。
反対している人が亡くなっても葬式はしないのだろうか。
遺族にしてみれば、葬式や霊柩車が不吉で迷惑なものだ、というのはどうだろう。
そういえば、
昔は「霊柩車を見たらすぐに親指を隠せ。そうでないと親の死に目に合えない」
という言い伝えがあった。
子供の頃のことだから、それを聞いた当時は私も鵜呑みにしていたのだと思う。
大きくなるに連れて霊柩車を見ても親指は隠さなくなった。
まさか、住宅街に霊柩車が頻繁に出入りすると、
住んでる子供たちが親指を隠して生活しなければならないから、
不吉で迷惑だ、と言っているのではないだろう。
お通夜の形
一般的なもの
会場の場合、
親族が集まり、段飾りの前、両脇に並ぶ。係員がお通夜の開始を告げる。
僧侶のお経が始まり、途中から焼香をする。
友人、知人は親族が焼香してから並んで焼香をする。
焼香が済み、お経が済んで、僧侶が退場した後、友人知人は帰ることになる。
軽食が用意されていることもある。
友人知人が帰った後、親族も帰って、家族が誰か残り、線香を立てて、
途切れないようにする。交代で線香の番をする。
葬儀の形
一般的なもの
会場葬儀の場合、
親族が集まり、段飾りの前、両脇に並ぶ。係員が葬儀の開始を告げる。
僧侶がお経を始め、途中から焼香をする。
友人、知人は、親族が終わってから焼香をする。
これはお通夜と同じである。
お経が終わり、僧侶が退場すると全員が一度会場の外に出る。
係員がお棺の蓋を開け、祭壇の花を手でとって、参列者に渡す。
参列者は棺の中に花を入れ、最後の別れをする。
棺の蓋を閉め、係員が1本釘を打ち、釘の頭を少し出したままにする。
遺族が石で釘を打ち、最後に係員がしっかり4本の釘を打ち付ける。
親族代表が参列者に挨拶をして、男性数人が棺を持ち、霊柩車へ運ぶ。
出棺を見送り、斎場へ移動。斎場へは主に親族が行く。
炉の中へ入れる前に焼香をする。
焼き上がるまで1時間あまり。参列者が控え室で待つ。
時間が来て放送連絡がある。参列者は採骨室へ移動。
参列者は二列に並んで竹の箸を使い、二人同時に骨の一つを挟んで
壺の中に入れる。
骨を入れ終わり、壺を持って段払いの会場へ移動。
会場では食事の用意をしてある。
食事が済みお開きになって解散。
ある葬式
ある知り合いの葬式は創価学会のやり方だった。
亡くなった人の家族や友人、知人が「何妙法蓮華経」と延々と唱え続ける。
位が高い人が、日蓮宗(?)のお経を唱えることもあった。
最後の方で、葬儀のやり方についての説明があった。
「日蓮は庶民のために仏法を説き、葬儀は家族や友人・知人が行うのが
本来の形である、と言って広めた。
それが時代の流れと共に変化し、偉い僧侶がお金をとって行う現代の形に
なってしまった」
と、いう話だった。
なるほど、とは思う。
しかし、その葬儀で集まった香典は、どうなるのか。
遺族には渡らず、創価学会の人が全て持っていく、という話を聞いた。
学会に全てを任せる。それが、遺族の希望なら何の問題もない。
しかし、必要経費以外を遺族に残してもいいのではないか、とも思う。
事実がどうなのか、確かめたわけではない。
また、創価学会と言っても、上に立つ人の考え一つで変わってくるだろうから、
全ての学会の葬式が同じというわけではないとは思う。
遺髪
昔は遺骨が手に入らない時には、髪の毛を代わりにして供養した、という。
妻の両親はもう亡くなった。
三年前の夏に父親、昨年の春に母親が亡くなった。
病院で亡くなった父親の遺体が妻の実家に帰って来て、
しばらくは布団に寝かされている。
その内、葬儀屋が棺を用意して納棺した後、
妻は「父さんにもう触れない」と言って大泣きした。見ている私も辛かった。
そして葬儀会場に棺は移動。お通夜が終り、夜は家族が何人か泊まることになる。
翌日は葬式でもうお別れだ。私は係の人に直接顏を見られないか、と聞いた。
すると、蓋の開け方を教えてくれた。
早速私は妻を呼んで蓋を開け、妻は親父さんに直接話し掛けていた。
翌日はもう触れない。
何か形として親父さんのものが欲しい。遺髪、髪の毛は残せないか、と妻が言う。
翌日、私は鋏とティッシュを用意した。
係の人に相談すると、喪主の了解があれば、と言う。
妻が喪主である兄に話して了解をもらい、
葬儀の最後、棺の蓋を閉める前に髪の毛をもらうことにした。
係の人が鋏と半紙を用意してくれ、親族の見ている前で私が髪を切ったのである。
妻の母の時は、棺に入れる前、自宅で布団に寝ている時に髪をもらった。
また、私が切ったのである。
今、
妻の父親と母親、二人の遺髪は、リビングの遺影のそばに置いてある。
この世に身体の一部を残して、心残りでウロウロするかもしれない。
でも、「幽霊でもいいから会いたい」と妻は言う。
棺の蓋を開ける
ある親類の葬式で、「棺の蓋を開けたい」と係の人に言ったら、
「喪主の了解があれば構わないが、
道連れを連れて行くことになる、という言い伝えがある」と言われた。
そうは言われても、
私は勿論、喪主に話して了解をもらい、蓋を開けさせてもらった。
死者を冒涜するつもりはない。
どうせ最後のお別れで蓋を開け、花を入れるのである。
葬儀社の社員
仕事とはいえ、大変な労働である。
見ず知らずの死体に触り、シャワーを浴びせる。それも遺族が見ている前で、
シ〜〜ンとした雰囲気の中で行う。緊張もするだろうし、粗末には扱えない。
また、手際が良くないと「どうしたんだ」と不信を抱かれる。
シャワーでなくても、遺体には触る。
白装束に着替えさせ、手を組ませ、ドライアイスを乗せたりする。
葬祭コーディネーターという資格があるそうです。
1級、2級とランクがあって、「これはどういうことか」と質問されたり、
「こうして欲しい」と言われて、どう答えるかという試験があるそうです。
人が亡くなるということ
生きていれば当たり前のことなのに、
普段は忘れられている現象が「人の死」。
新聞やマスコミでは毎日のように事件、事故が報道され、
人が亡くなることを耳にし、目にしていても、
自分は傍観者でいられる、と信じて人は生活しているもの。
いざ、家族や友人、知人がなくなった時に、
実感としていつも身近に「死」があると気付く。
そんなものなんでしょう。
人の死に触れて見送る。その時に、見送り方の色々を目にする。
あとがき
日常の中にあるのに、普段は意識していない人の「死」。
儀式や迷信、習慣、礼儀・・・。知らないと困ること。
知っていても役に立たないこと。理由が分かって納得できること、できないこと。
葬儀にはそれらが凝縮している。
生きていれば誰かの死を見送る、これは避けられない。
生き残った者の義務だから仕方がない。
大事なのは遺族の納得。生き残った者の納得。それに尽きるのか・・・。
なんだかまとまりがないな〜(笑)
平成14年2月16日